めんどり通信/2009年1月4日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<主イエス・キリストを真に信じ、主に信頼して大不況を乗り越えよう!> |
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★旧約聖書 エレミヤ書 17:7
主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。 ★旧約聖書 箴言 8:34 幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見 守って、わたしの言うことを聞く人は。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 18:37 ・・・・真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。 ●聖書は、そのことばが神のことばと信じて読む者たちに、知恵を与えてキリスト・イエスに対 する信仰による救いを受けさせることができるものである。(Uテモテ3:15) 神のことばは、 生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、いつまでも変わることがない。 そして実現する ものである。(ヘブル4:12、Tペテロ1:23) 当時イエスをことばのわなにかけようと質問してき
たパリサイ人たちにイエスは言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知
らないからです。(マタイ22:29)」
聖書を読むということは、神のみことばを心の内に蓄えることである。 神のことばは、単に頭 で記憶したり理解したりというものではない。 絶えず祈りの時を持ち、主と交わりを持っている 者が、いよいよ心へりくだって読むとき、その者の心に神が書きつけてくださる。(イザヤ66:2、 ルカ11:10) その聖書が書いている重要なことの一つに、人に頼るのではなく、神に頼れ!ということがあ る。 人に聞くのではなく、神に聞け!ということである。 内容にもよるが、事を決定するにお いて、最後の一押しは、まことの神、永遠のいのちであられる主イエス・キリストにしていただく べきである。(Tヨハネ5:20) 神に頼るということは、神の基準を第一として、神に主導権を持って頂く為、祈りによって主の み心と神のことばを知り、自分の意志で主のみ心、神のことばを選ぶことである。 そうすると その人は神のわざと力のあらわれを見ることになる。 キリストを体験することとなる。 カトリックでは、聖書のことばより、ローマ法王のことばの方が優先されるという。 「神よ、主 よ。」と呼びながら、ローマ法王に頼っているのである。 ローマ法王は、神の御前にへりくだる べき人間であって神ではない。 20億人ものカトリック信者を迷わせている者の責任は重い。 また、聖書をきちんと読まず、真心からの祈りに時間をとって聖霊に触れられていないカトリッ クの方々にも問題はあるのではないだろうか。 もちろん、カトリックであろうがプロテスタントで あろうが主と正しく交わっていない者は、惑わしとだまされる道に入ってしまう。 聖書の中には神の約束のことばで満ちている。 主イエス・キリストを信じ、主のみこころに従 いたいと真剣に求める者には、わかるようになっている。 「求めなさい。そうすれば与えられ ます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(ルカ11: 9 )」とある通りである。 このみことばの意味合いは、少しだけ信じ、少しだけ聖書を読み、少しだけ祈りということでは ない。 神の前にへりくだって、時間をかけて聖書を読み、絶えず祈りに祈っている姿が、この みことばのいう「求めている、捜している、たたいている」ということである。 そのようにする者は、聖書の中にある神の約束のことばをいただけるであろう。 主が語って くださるであろう。 失業、貧困、孤独感などだけでなく、慢性的な病や様々な種類の問題に 対処する上で、神の導きと助けが得られる。 大不況も乗り越えられる。 ストレスや不安を 感じる時にも、神の愛を感じさせてくださる。 一人ひとりの必要を真に満たしてくれる愛ある 助けを得ることができる。(Tペテロ5:7、Tヨハネ5:14) 今年も絶えず、祈って祈って、主の語りかけに(霊の)耳をすまし、主のことばに従う道を進ん でいきたいものである。日々、聖霊の導きによって祈り、主に頼って聖書を読んで、大不況な ど吹っ飛ばすくらい、神の守りと恵みをいただこうではないか。 ★旧約聖書 詩篇 62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、わ れらの避け所である。 ★旧約聖書 エレミヤ書 17:5 主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわ れよ。 |
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