めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年12月28日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<クリスチャンも教会も出エジプトの時がある!>



★新約聖書 第二コリント人への手紙  6:17,18
   それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れ
       ないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしは・なたがたの父
       となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

★新約聖書  マタイによる福音書  10:14
       もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家
       またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。


旧約聖書出エジプトは、イスラエル人がエジプトの地で奴隷として苛酷な労働を強いら
れていたのを、主がモーセを召して彼を通してみわざをなさり、イスラエル人たちをあがない出
してくださったことが書かれている。 

出エジプトの時、イスラエルの民の命が救われるために、傷のない1歳の雄の羊が殺された。 
モーセを通して語られた神のことばを信じた者たちは、その血を、家の入り口の両脇の柱とそ
の上の鴨居に塗った。 そして、神の裁きは血の塗られた家の者たちを過ぎ越し、血の塗られ
ていなかった家の初子、すべての家畜の初子に至るまで打たれた。

このところは、まったく罪がないイエス=傷のない羊、十字架で流されたイエスの血=入り口に
塗られた羊の血として、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じたら誰でも救われる。 われわ
れの罪のあがないのためイエスは十字架で血を流され死んでくださったことを教えている。
また、クリスチャンや教会も出エジプトしなければならない時があることをも教えている。 

出エジプトとはそもそも、そこから出てくる、離れる、分離することである。 聖書で「エジプト」と
いうとき、たとえで「世」をあらわすことが多いが、クリスチャンも教会も「世的クリスチャン」「世
的教会」から出て来る、分離するということであると受け取れる。 

クリスチャンや教会が「世的」になることは有り得ることである。 現代においてもその兆候は
十分にあらわれている。 
イスカリオテのユダが改心して無事、天国に入ったとか、死後、ちゃ
んと悔い改めるなら、救われる機会があるから心配ないとか、神は愛だから、悔い改めなどで
きなくても大丈夫、裁きなどと愛のないことはなさらないとか
・・・ほとほとあきれてしまうような
教理が教会の中に浸透していると聞く。

カトリックはよくまとまっているようで、煉獄思想という、この地上で完全な悔い改めをできな
かった人の救済の道があり、ローマ法皇がいう地獄はない、誰も地獄へ行かないという教え、
マリヤは
「キリストと共同のあがない主」などが浸透しているようである。 こんな冒涜的な教理
がカトリックの隅々にまで徹底しているのだから、聖霊が離れていくのも当然であろう。

出エジプト記でナイルの水が血に変わったり<教会が聖霊から悪霊にかわる>、エジプト全土
で地のちりがみな、血を吸うぶよ(=しらみ)になったり<聖霊の働きが落ち、人間的な教えが
多くなる>、いなごが地の面をおおったり<変な教理が教師や牧師、注解書を通してやってく
る>などは、終末の日の教会の状態をあらわしているようである。 

現代、すでに多くの教会が終末の教会に突入し始めたかもしれない。 
偽教理である艱難前
携挙説、2段階携挙説、セカンドチャンス、パーパス・ドリブン・チャーチ(PDC=目的主導教
会)、セルチャーチ、トロント、ペンサコーラ、聖霊の第3の波、エキュメニカル、教会統一運動、
ハリーポッター、カウンセリング、ニューエージゆかりの心理学・・・
、これらはすでに多くの教
会、クリスチャンの中に浸透している。

すでに出エジプトの備えを十分にしておかなければならない時が来たと思われる。 このような
ことの警告をしている教会やサイトは残念ながら見当たらないが、HPに「角笛/終末の警告
的確に警告を発している。 クリスチャン、教会、未信者、すべての人は見ておく価値は十分に
ある。 

イエスは言われた。
「もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けな
いなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(マ
タイ10:14)」
と。 この世的なものから離れるということをサタンは大いに妨げるであろうが、分
離は、永遠の命への道を、途絶えさせないことになる。 

今日の教会やクリスチャンは、聖霊のバプテスマ(聖霊が染み通ること。思いや行い、教えに
を日々受ける必要があるかもしれない。 幼な子のように何でも主に聞く者となるべきであろ
う。
(マルコ 10:14,15他) 世の常識だけでなくキリスト教会の常識と思われていることも主に聞
くべきであろう。 真に主イエス・キリストにつく者は、主が言われたように、世的教会から足を
洗い、、足のちりを払い落とすべきである。 すなわち、主の喜ばれないことをやめて、真のク
リスチャンになること、この世的なもの、変質した教理から離れるべきである。

絶えず、祈って祈って、主の語りかけに(霊の)耳をすましている者に出エジプトの時を、主は
語り、教えてくださる。 そして永遠の命を確実に得ることのできる道へと聖霊が導いてくださ
る。 日々、聖霊の導きによって祈り、主に頼って聖書を読んで備えていきたいものである。

★新約聖書 第一コリント人への手紙  7:31
       世を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。
        
(KJV訳では 世の富=世=this world)

★新約聖書  ヤコブの手紙 4:4
       貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。
       世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。



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