めんどり通信/2008年12月21日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ! <たとえどのような時でも真のクリスチャンは守られる> |
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★旧約聖書 詩篇 145:20 すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることが なく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 ●現代、世界中に百年に一度といわれる不況が押し寄せている。 日本でも新聞に、仕事なく ネットカフェ泊も厳しくなり、凍える「難民」が行き場を失くしている、というような記事が毎日々 掲載されている。 「食べる」ことは人間にとって体の命を維持していくのに必須である。 クリスチャンにとっても 霊の食物、すなわち異物混入のない正しい神のみことばを「食べる」ことは、霊によって生きて いくためには必須である。(1コリント10:3,4、ガラテヤ5:25) 世もキリスト教会もこの「食物」が失 われてしまう「飢え」の時代に突入してしまったのだろうか。 この飢えの時代はますます深刻 になってくるであろう。 しかし聖書の中に解決策が書かれている。 T列王記17章にサレプタのひとりのやもめの女のことが記されている。 あらましはこうであ る。 エリヤの時代に3年半 全国に大ききんがあった。 エリヤは主から「立ってシドンの ツァレファテ(サレプタのこと)に行き、そこに住め。 わたしは一人のやもめに命じて、そこであ なたを養わせる。」と言われた。 彼がその町の門に着くと、ちょうどシドンのサレプタに住む異 邦人のやもめ女がたきぎを拾っていた。 彼はその女に「私にパン一切れ持ってきてくれ」と頼むと、女は「私のところには、かめの中に 一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。私は二、三本のたきぎを拾って、それ で最後のパンを作り、あとは死を待つばかりなのです。」と言って断った。 するとエリヤは、「まず私に食べさせるなら『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの 粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』とイスラエルの神、主が仰せられる。」と言った。 するとこのやもめ女は、その神の言葉を信じて、エリヤになけなしのパンを作って差し出した ら、その通りになって、やもめの女も家族も飢えなかったということである。 このときエリヤが言った言葉は人間的には非常識であると思われるが、彼のことば通りにした 結果、やもめの女も家族も助かったのである。 時として神のことばは世の常識から考えるな らば、とうてい受け入れがたいと思われることもあるかもしれないが、大切なことは結果、救わ れること、助かることである。 神のみわざは神のことばに従うところにあらわれる。 イエスがある安息日に会堂にはいられ語られたことばに、会堂にいた人々が憤慨し、イエスを 崖から投げ落とそうとしたと聖書に書かれている。 ユダヤ人たちを憤慨させたことばは「わた しが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききん が起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、 シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。・・・(ルカ4:25,6)」である。 やもめとは、地上の何をも自分の夫とはせず、ただ、天におられるキリストを自分の夫である との態度をつらぬくクリスチャンのたとえであると思われる。 Tテモテ5:5に「ほんとうのやも めで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も、絶えず神に願いと祈りをささげていま す・・・」とある。 絶えず祈っているクリスチャンはみな本当のやもめと言えるだろう。 そして、 真のクリスチャンであるなら絶えずイエス・キリストに心を向ける。 キリストのところに行く。 そして行く手段は、祈りである。 今後、世もキリスト教会もますます悪くなると思われる。 しかし、たとえどのような悪い時代に なろうとも、絶えず御霊によって祈っているならば、人が生きるための食物も、真に生きるため の食物、命のパンと油、つまり正しい神のみことばと聖霊の助けも与えられるであろう。(マタイ 6:33,エペソ 6:18) そのため日々、祈りつつ聖書を読み、主がいわんとされることを全面的に受け入れていき、祈 りに祈って聖霊に導いていただきたいものである。 ★旧約聖書 箴言 10:3 主は正しい者を飢えさせない。しかし悪者の願いを突き放す。 ★新約聖書 第一ペテロの手紙 4:7 万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。 |
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