めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年12月7日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<いのちのパンなるキリストを全面的に受け入れよ!>



★新約聖書   ヨハネによる福音書  6:51
       わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生
       きます。

★新約聖書   ヨハネによる福音書  6:44
       わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはでき
      ません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

●主がこの地上におられたとき大ぜいの人、群集はキリストのところに来た。 病をいやしても
らったり悪霊を追い出してもらったりしたが、奇跡をあらわされたキリストを全面的に受け入れ
なかった。 奇跡で増やされたパンを食べさせてもらったが、奇跡をあらわされたキリストを見
ていなかった。 権威ある者のような教えを受けたが、その教えをいのちのパンとして食べな
かった。 つまり、キリストのことば、キリストご自身を全面的に受け入れてなかった。 だから
群集は律法学者や祭司長たちに、たやすく扇動されてイエスを十字架につけた。 

12弟子は主が自ら選ばれた。 神のご計画によりキリストのところに来たと言える。 しかし、イ
スカリオテのユダは、キリストに選ばれキリストのところに来て、キリストの近くにいたはずだっ
たが、キリストを裏切った。 

神のことば、聖書のことばは、神ご自身であり、いのちのパン、キリストである。(ヨハネ福1:4
〜)
 だから、聖書のみことば、神のことばをどう受け取るか、その受け取り方によって、いの
ちのパン、キリストを食べたかどうかがわかる。 いのちのパンとして食べているなら、そのパ
ンはその人を生かす。 すなわち、生きざまが変わる。 キリストを第一として聖書のみことば
を基準とした生き方に変わっているはずである。

「変わる」というとき、この世の見方と聖書の見方が違う。 だから様々な面で、この世と違いが
出てくる。 時には、クリスチャンの心に この世に対しての事柄に関して、違和感を感じること
も出てくる。 それはキリストから見れば正常である。

昔から多くの人がキリストのところに来た。 すなわち、キリストを信じ、聖書を読み、みことば
を聞き、教会に通った。 聖書のみことばも追求し研究をした人も多い。 しかし、いのちのパ
ンとしてキリストを食べてない人は、土壇場になったとき、キリストを捨てた。 中には自分を捨
てた人もいる。 

芥川龍之介は枕辺に聖書を置き、睡眠薬で自殺を遂げる寸前まで聖書を読み続けたが、結
局、キリストを捨て自分も捨てた。 太宰治も相当、聖書を読んでいたのに自殺した。 トルスト
イというロシアの文豪は、「汝の敵を愛せよ」というイエスの教えをことごとく守ろうと、農民たち
のために学校を作ったり、原稿料を難民の救済に充てたり、キリスト教的な道徳的完全さを
もった人間を目ざした。 

しかし晩年、非常な孤独の中に閉じこもる人間となり、ついに遺書を書き、妻への別れの手紙
を書き、自殺のような家出をして出先で死んだという。 彼らはみな真理を求めていたからこそ
聖書を読んだのであるが、「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
(コロサイ人への手紙2:3)」
との聖書のことば、主イエス・キリストのことばを単なる道徳的なこ
とばとして捉えていたと思われる。 

「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず
死ぬ。(創世2:17)」
と神は言われたが、彼らは自分の知恵で考え、自分の力で行おうとした。 
それはパリサイ人、律法学者たちが行ってきた律法主義であり、カトリックが教えている「行い
よる救い」である。 

イエスのことばは福音である。 いのちのパンであって、食べるべきものである。 すなわち全
面的に受け入れるべきものである。 キリストを全面的に受け入れた者は救われて魂の平安
を得るだけでなく、いのちに満ちた生き方をすることができる。 また、一度食べるというもので
はなく、日々の生活においてクリスチャンがクリスチャンとして生きていくために、常に食べ続
けることが必要である。 求める者には神はその時々において与えてくださる。 

終わりの日には永遠のいのちを受けるため、よみがえるためにも、キリストのことばを真実と
して、食べ続けていきたいものである。 そのため日々、祈りつつ聖書を読み、祈りに祈って
聖霊に導いていただきたいものである。

★新約聖書    ローマ人への手紙  3:22
       すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人
        に与えられ、何の差別もありません。

★新約聖書    ローマ人への手紙  9:31,32
       しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
       なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求
       めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。




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