めんどり通信/2008年11月30日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <御国を相続する報いか苦しみの報いか、どちらの報いを受けるのか> |
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,★新約聖書(口語訳) ガラテヤ人への手紙 6:7,8 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈 り取ることになる。 すなわち、自分の肉(のため)にまく者は、肉から滅びを刈り取り、(御)霊(のため)にまく者 は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 ★旧約聖書 エレミヤ書 17:10 わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によっ て報いる。 ●聖書は人が受ける「報い」について書かれている。 「報い」というとき、神からの報いと人か らの報いがある。 マタイによる福音書6章で、主は、人からの良い報いを期待する者は、神か らの良い報いを受けることができないと言われる。 すべての人はいずれ必ず神からの「報 い」を受ける。 簡単に言うなら、幸いな報いか苦しみの報いかである。 「自分でまいた種は自分で刈り取れ」ということばは巷でもよく聞く。 昨今の新聞紙上でも医療 や年金、金融取引、政治などのことで「自己責任.」「自業自得」などという文字を多く見かける。 自らつくった善悪の業の報いを自分自身で受けること、いいことも悪いことも、まいた種はいず れ自分に返って来ること。 その結果が新聞紙上を賑わせているようである。 確かに自分のまいた種は、いつか自分に返ってくる。 聖書のことばに照らし合わせて考え てみるならば、我々人は、人に対してだけではなく、神に対して様々な種、それも罪の種をまい てきた者である。 それは抱えきれないほどの罪の束になっているのではないだろうか。 まさか、自分は直接、クリスチャンをののしったわけでもなく悪を働いたわけでもない。 むしろ 良いこと、人にもほめられることをしたはずなのに罪の升目を満たしている、ということがあり 得るのである。(ローマ2:5) また、罪の升目が増えていなくとも罪が処分されずに残っていると いうことは十分あり得ることだ。 主イエス・キリストを真に救い主として受け入れていない者に 対しての神のことばは厳粛なものである。(黙示録21:27、20:12) 自分で気づいている気づいていないに関わらず、この地上で生きている以上、日々言葉にしろ 態度、心の思いにしろ、大丈夫、誰からも突かれる事がないくらいすべて清い、という人はこの 世では一人もいない。 しかし、たとえクリスチャンといわれる人であっても安堵できる時代ではなくなった。 それは偽 教理である艱難前携挙説、2段階携挙説、セカンドチャンス、トロント、ペンサコーラ、聖霊の第 3の波、エキュメニカル、教会統一運動、ハリーポッター、・・・などなどが教会の中に深く入り込 んできているからである。 そのため多くのクリスチャンが聖書の神のことばからあまりにも はずれてきている。 すべての人間は、死後、神の前に引き出され、自分の犯した罪の報いを受ける運命にあると 聖書は記している。(Uコリント5:10) そのことを考えただけでもぞっとする。 しかし、多 くの人は、自分に罪の報いがあるなどとはつゆとも知らない。 だから、キリストの十字架、 我々の罪の身代りとしてイエスが死んでくださり、我々を滅びから救い、生かすために3日目に よみがえられた、などということは次元の違う話し、作り話、単なる物語と受け取るのかもしれ ない。 しかし、聖書に登場してくる神がよしとされる神の器といえども、まいた種は必ず刈り取ってい る。 旧約聖書に出てくるサムソンは女性問題からつまずきが起こり、その実を刈り取ることに なった。 モーセもダビデも罪に対しては責めを負った。 ヤコブは昔自分のしたことの報復を 恐れた。 たとえ神に用いられている器であっても、安心などできない。 神が罪を大目に見ら れることは決してないからだ。 自分のまいた種は、いつか自分に返ってくるが、まいた種が芽を出し、刈り取れるようになるに は時間がかかる。 そして善の種をまけば自分で善を刈り取り、悪の種をまけば自分で悪を刈 り取るが、生きている間にそれを刈り取らなかった者は、死後にそれを刈り取ることになろう。 そして、聖書の基準でいうならば、生きているとき、死後に関わらず、人は死後、一度は神の 前に立ち、最終の報いの決定がそこでなされる。(ヘブル9:27) 本当に厳粛なことである。 我々はクリスチャンであってもなかっても、もう一度自分を吟味すべき時にきているのではない だろうか。 すべての人に罪はある。 罪の結果、報いは死、永遠の滅びである。 しかし、い ろいろな定めのために我々に不利な、いや、我々を責め立てている債務証書を、神は十字架 に釘づけにしてくださった。(コロサイ 2:14) 罪の債務が、キリストによって払われているので ある。 このことをしかと信じ、キリストを真に受け入れるならば救われるのである。 主を受け 入れた者は、主イエス・キリストに従うであろう。 神のことばに従うであろう。 主に従うこと は、主に真によりすがる者が従うことができるのである。 やがての日に御国を相続する、つまり「永遠の命」という報いを受けるため、絶えず主によりす がり、主のもとに留まり続けておきたいものである。 そのためにも日々、祈りつつ聖書を読 み、祈りに祈って聖霊に導いていただきたいものである。 ★新約聖書 第二コリント人への手紙 5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自そ の肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある 永遠のいのちです。 |
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