めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年11月9日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!<神の御手の下で苦労している者、奮起せよ!永遠の命へと向かっているからだ>


★旧約聖書  イザヤ書 63:9
        彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわ
        れみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
 
★新約聖書  ピリピ人への手紙  2:16
        いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私
        は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリスト
        の日に誇ることができます。

●世の中には苦労している人が多い。 子どもの将来について、人への気づかい、お金がな
い、・・・など様々である。 「苦労」と感じることがらは人によって様々であるが、いつの時代に
も「苦労」している人は多いと思われる。 

人は苦労しているとき、苦難にあっているとき、とかく周りを見て自分と同じような人はいないか
もしくは自分より苦労している人、不幸な人はいないかを探して、それ以上苦しむことから解放
されようとする心境になることがあるかもしれない。 そして時には苦労していない者を見てね
たんだり、愚痴をこぼすなどと罪を犯すこともあると思われる。

旧約聖書詩篇73編に歴代誌の時代、エルサレム神殿で聖歌隊のリーダーだったアサフとい
う人の心情、告白が書かれている。 神の戒めを守って信仰正しくきよく生きているはずなの
に、試みにあって苦労している自分とは裏腹に、神を恐れていない人々が安穏と暮らしている
のを見て心が疲れくじけそうになったという。 

「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。しかし、私自身は、この
足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。(詩篇73:1,2)」
と書かれている。 すべ
りそうになった理由は、悪者が栄えている様子を現実に見て誇り高ぶる者をねたんだからだと
言っている。

確かに「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるよう
なことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくだ
さいます。(Tコリント10:13)」「後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結
ばせます。(ヘブル12:11)」
と聖書に書かれているとおりではある。

しかし、実際、苦労しているとき苦難にあっているときは、喜ばしいものではなく本当に苦しいも
のである。 アサフも悩み苦しみ、苦労のあまりついつい周りを見回したと思われる。 しかし
アサフは神の聖所にはいり、その悪者(神を恐れない人々)の最後を見たとき、アサフは自分
の苦労の理由を知り、矛盾の悩みから解放され、悔い改め再び信仰に堅く立った。

神を信じている者にも信じていない者にも苦労、苦難はある。 またどちらの者にも苦労、苦難
がなく繁栄している者もいる。 いずれにしても人生においては結果が重要である。 しかし、
アサフのことばや聖書の他の箇所のことばからすると、真に神を恐れる者、キリストに従う者
は試練、苦難にあうようである。

伝道者の書7:2に「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人
の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」
と書かれている。 す
べての人の終わりである死を、しっかり見つめることの大切さを我々は認識すべきであろう。 
死後に行き先があるなどと、信じない者にとっては結果より人生を楽しむということの方が重要
であろうが、聖書によるならば、人は信じようが信じまいが人間には臨終の後、2つの行き先が
ある。

天の御国かハデス(地獄)である。(ルカ16章より)  そして、行き先決定の前に、すべての人
間には神の前でさばきを受けることが定まっている。(ヘブル9:27)

多くの人にとって人生は何かと苦労の連続であるが、人生の大失敗、悲惨なこと、困難など
があったとしても、神の御手の下での苦労、苦難、試練は必ず後に益になるばかりか、神の
最大の賜物である永遠のいのちを獲得することにつながる。 

なぜなら、人がその子を抱くようにキリストが苦しむ者と共にに歩んでくださるからである。 
「主があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように、守ってくださるからだ。
(箴言3:26)」「主に信頼する者は守られる(箴言29:25)」
からだ。 主が 共におられるなら
苦労がむだになることは決してない。

「自分の人生の責任を自分で取る」ということばをよく耳にするが、自己の行為について、直接
神に対して責任を負っている我々人間は、神に対しては誰一人責任を取ることなどできない。  
しかしイエスが我々の身代りとなって罪の責任を十字架で取ってくださった。 そして主を恐
れ、主に頼る者の苦しみを知っておられるだけでなく、そのような我々を背負い、抱いてこの地
上の人生を共に歩んでくださるのである。 

「永遠の命を得ることができた」という結果となるように、絶えず主によりすがり、主のもとに留
まり続けておきたいものである。 そのためにも日々、祈りつつ聖書を読み、祈りに祈って聖霊
に導いていただきたいものである。
★新約聖書  マタイによる福音書  11:28,29
   すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた
       がたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたし
       のくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。


★新約聖書 ローマ人への手紙  8:17  
       もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるため
       に苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であり
       ます。


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