めんどり通信/2008年10月26日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<世に打ち勝ち、永遠の命を得る> |
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★新約聖書 第一ヨハネの手紙 5:3〜5 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。 なぜなら、 神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち 勝った勝利です。 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではあり ませんか。 ●聖書をよく読むと主に従う弟子と主を裏切る群集、素直に神の恵みに入ろうとする子供と自 分の力で天国に入ろうと失敗する大人、天の御国にいる貧乏人とハデス(地獄)で苦しんでい る金持ちなどと様々なことが対照的に書かれていることが多い。 二つに分かれている。 二 つの区分がある。 中間がない。 人はみなこの世で生きている。 しかしこの世という一つの国の中で生きてはいるが、主イエ ス・キリストを救い主、神として信じた者は、本当の故郷は天の御国であるゆえにこの世では 旅人、寄留者である。(ヘブル11:13) イエスも「わたしの国はこの世のものではありません。 (ヨハネ福18:36)」と言われた。 聖書に記されている神が良しとされた旧約、新約の神の民 はみな、この自覚を持って生きていたことが記されている。 「イエスを神の御子と信じる者は世に打ち勝つ」。 「世に打ち勝つ」とはどういうことであろう か? 我々が住んでいる現代社会、世界は危機的絶望の状況である。 しかし魅力的なところ であると案外多くの人は認めているのかもしれない。 お金や地位や名声・・・などが多々あ り、地位名声を取るか、人間としての良心を取るか、お金や地位や名声ではなく、生き甲斐あ る人生を送る、などとかっこよい言葉を並べ立てても、一攫千金を夢見て宝くじを買う者の多い こと。 また、成功の定義は、富の獲得によって地位や名声を得ることなどという考えもあれ ば、地位や名声を手に入れ、財産を築き上げた人間は、人から感心されるという考えも多い。 いつの間にかそういうこの世の俗世間的発想・習慣・考えに染まり、実際の人生設計を立てる ときには成功、安定が基準となっている場合が多い。 どうもそれは聖書の言う「世に打ち 勝」っているとはいえない。 聖書はそのような人をひきつける「世」と距離を置くことを勧めている。 「 この世と調子を合わ せてはいけません。(ローマ12:2)」「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。(Tヨハネ 2:15)」「世の富(KJV訳では”世”)を用いる者は用いすぎないようにしなさい。(Tコリント7:31)」 旧約聖書でもレビ記などで動物をたとえとして世との分離を命じている。 「それから、岩だぬ き。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものであ る。(レビ記11:5)」 我々クリスチャンはこの世で生活している以上、この世のルールに従わなければならないが、 信仰を覆してまでこの世に深入りをしてはならない。 しかし、現代、そのキリスト教会がこの世 を大いに取り入れ、この世と手を結ぼうとしている。 いや昔からキリスト教会はすでにこの 世と手を結んでいた。 コンスタンティヌス帝によるキリスト教が公認されて後、392年のテオド シウス帝によりキリスト教が国教化された。 もともとのキリスト教はローマ皇帝に対する皇帝礼拝さえ拒否して殉教者も出ていたのに、 ローマ皇帝はキリスト教によって皇帝権を神聖化していった。 そして今や、エキュメニカル運 動(教会一致運動)が盛んである。 このエキュメニカルということばは黙示録16:14の”世界” (oikoumeneというギリシャ語)が元になったという。(エレミヤの部屋NO538より) 要は互いに 違うところは目をつむって一致する、世的になろうという運動である。 聖書が語っていることと 正反対のことがあろうことかキリスト教会の真ん中で進められているのである。 聖書に反することをしているなら、どうしてそのような者がクリスチャンなどと言えよう。 クリス チャン(原語ではクリスティアーノス「キリストに従う者」)などと口が避けても公言してはならな い。 真のクリスチャンならば、聖書が語っているとおり神のみこころを行い、自分の十字架を 負い、主について行っているはずである。(マタイ10:38) 主に従う者は、主が模範を残してくだ さった道を歩んでいるであろう。(Tペテロ2:21) 聖書を見るならばキリストの道は決して平坦な道ではなかった。 安逸をむさぼるような歩み方 はしておられない。 しかしアメリカなどでは「再臨する主を待つ」などという悲観的な信仰は否 定されつつあるという。 主をも父をも知らないクリスチャンがアメリカでは、増えつつあるとい う。 しかしこれはアメリカだけの問題でもなさそうである。 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑される。(ヤコブ1:14) 人が世に引 かれるのは世を愛しているからであり、神を愛することができないからである。 結局、救われ ておらずキリストを信じていないからであろう。 悔い改めて、神に立ち返り、神を愛し、神のみ こころを行うならば天の御国に入ることができるであろう。 つまり永遠の命を獲得することが できる。 世に打ち勝って神のみこころを行っていくことができるためにも日々、祈りつつ聖書を読み、祈 りに祈って聖霊に導いていただきたいものである。 ★新約聖書 第一ヨハネの手紙 2:15〜17 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その 人のうちに御父を愛する愛はありません。 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、 目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだか らです。 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもな がらえます。 |
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