めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年10月12日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神のことばを真に信じ、従う本心があるかどうか>


★旧約聖書  イザヤ書 66:2
   ・・主の御告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにお
    ののく者だ。

★新約聖書 ローマ人への手紙  9:16,18
   したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるので
   す。  こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかた
   くなにされるのです。

●聖書が一貫して語っていることの中のひとつは、本来、世の偶像の神は実際にはないもの
であること。 存在するのは、父なる唯一の神だけであること。 また、唯一の主なるイエス・キ
リストがおられるだけであるということだ。(Tコリント8:6)  

だから、この世で様々な事が起こることについても唯一の神の御許しがなければ起こり得ない
ことである。(マタイ10:29) それがたとえどんな不幸な事柄であっても災いであってもだ。 確
かに、その人自身の問題もあったり、この世の君サタンや多くの悪霊どもの仕業により多くの
不幸なことなどが起こっていることは事実である。 しかし、それとて神の御許しの範囲以上に
はできないことなのである。

なぜ悪しきものの働きが許されているのか? その理由の一つには、”神は人を試される”と
いうことがある。 様々な試しを通して、その人の本性、本音が知れるであろう。 神が試され
るのは「神のことばを真に信じ、従う本心があるかどうか」ということ、つまり本物の神に対して
の本物の信仰かどうかということである。 

聖書の中の多くの登場人物もそこのところを試された。 神はなぜ信仰を試されるのか? そ
れは福音書を見ればよくわかるように、人という者は熱心に主に従っているようでも結局、自
分の気に入らないことばとなると従うのをやめるどころか、すぐに裏切ってしまうような者だから
である。 そして、そういう者であることに案外人は気づいていない場合が多い。 神は人が心
から主に従うことができるように清めるためにも人を試されているのではないだろうか。

神から信仰を試されたとき、失敗した中で筆頭がしらはペテロかもしれない。 しかし、神が見
ておられるのは「神のことばを真に信じ、従う本心があるかどうか」であって”神のことばに自分
の力で従え”ではない。 彼は失敗しても試金石となったその主と主のことばから離れず、悔い
改めて、主のことばに従うことができるようになるため、主によりすがること、主に頼ることを学
んだ。 また、世の風潮に流されず、惑わされない信仰へと鍛え上げられていき、畏敬の念を
もって神を恐れることを身に付けていった。 

ペテロのことでわかるように、人は自分の弱さによって裏切ったとしても、その後の神に対する
態度でその人の本心が表れているようである。 そして、その本心が、真に主に従っていきた
い、神のことばを行っていきたいという者は、神の御前にへりくだって悔い改め、それまで気づ
かずに固執していた自分の考えや思いを潔く捨てて、主の御心をもとめ、主によりすがるであ
ろう。 

我々人は、どうしても外側の形にとらわれがちになったり、無意識に神からではないものの影
響を受けることがある。 何か事を行おう、成そうと考えるとき、クリスチャンであってもキリスト
教会がずっとこうしてきたから、このことは多くのキリスト教会が、神学校が行ってきてよかった
からと、ともすると教会や神学校、クリスチャンを第一に見ることがあるかもしれない。

しかし、重要なことは、神はどう言われているのか、聖書は何と語っているのか、聖霊はどう導
かれているのか、それを見ていくことである。 教会は、キリストあっての教会である。 キリスト
が第一になっているのがキリスト教会である。 「神学校では、教会ではこう行った、結果良か
った」ということばの中に「神のみこころで、聖霊の確実な導きがあったから」ということばが組
み込まれてのものであるならば、人(クリスチャン、教会、神学校、教団などを含む)は認めなく
ても、神は良しと認めてくださる。 そして、それは必ず、聖書に則(のっ)とったものになってい
ることであろう。 

たとえ、今というときが失敗の段階のとき、聖書の語る神のみこころの形があらわれていない
途中段階のときであったとしても、大切なことは絶えず心から主のみことばに従うこと、聖霊の
御声に聞き従うことである。 毎週、日曜礼拝へ行くことは聖書的である。 神の御心である。 
しかし、それ以上に大切なのは、信仰の訓練、神からの鍛えを受けているか、いや受けさせて
もらっているかどうかである。 形より中身が大切である。

最初と途中段階がよくても重要なのは結果である。 途中段階においては、ただひたすら聖霊
の導きに従いへりくだっていくことである。 途中段階のうちに実を結んだかのような形になっ
ていなくても、じっくり主の御声を聞きながら、聖霊の導きに従いつつ実を結ばせて形になって
いくということが、惑わされず倒れずの秘訣であろうと思われる。 早く実った亜麻と大麦は打
ち倒され、実るのがおそかった小麦は打ち倒されなかったと聖書に書いている。(出エジプト
9:31,32)

「神のことばを真に信じ、従う本心が」ある者は、信仰の訓練、神からの鍛えを受けながら、神
の御前にへりくだり、じっくり聖霊の御声に聞き従い、確実な一歩一歩を踏みしめていくであろ
う。 そのために正直な心で絶えず主の御前に出て行き、主のことばをいただきたいものであ
る。 それには祈ることである。 日々、時間を作って祈りに祈っていく者に主は御心を示して
くださるであろう。 今週も祈りの一週としたいものである。

★旧約聖書  ミカ書 6:8
       主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられ
   るのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩む
   ことではないか。


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