めんどり通信/2008年9月28日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<聖書が語る権威について> |
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★新約聖書 ローマ人への手紙 13:1,2 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威は すべて、神によって立てられたものです。 したがって、権威に逆らっている人は、神の定 めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。 ●旧約聖書民数記12章に祭司アロンと預言者ミリアムがモーセを非難、告発したことが書か れている。 もともとねたみからモーセに対する神の選びを快く思っていなかった上、彼らの弟 モーセが、本来イスラエル人は同じイスラエル人と結婚すべきであるのに異邦人の女を妻にし ていたからである。 確かにアロンとミリアムが言ったことばの内容は間違っているとはいえない。 しかし、神は彼 らに対して怒りを表わされた。 罰としてミリアムはらい病にかかった。 神が立てた権威モー セの受けた非難、告発は、実は神に対してなされたものと神は受け取られたのである。 たと え年齢的にはモーセは彼らの弟で年下であっても、神が立てた権威の順番が優先である。 神に立てられた権威に対しての反抗には、神ご自身が対処なさる。 これが聖書の原則、神 の原則である。 このことは旧約時代のことだけでなく新約の今の時代も同様である。 新約 の今の時代にも神の立てた権威がある。 ★新約聖書 第一ペテロの手紙 2:13 ,14 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であって も、そうしなさい。 ●上記のみことばは、クリスチャンもこの世の制度や権威に従うべきだと語っている。 もちろ ん何の基準もなしに何でもかんでも盲従せよということではない。 クリスチャンにとってまず生 ける神、主イエス・キリストに従うことが 第一である。 その上でこの世で旅人として生きている クリスチャンは、キリストにあって存在する権威に従うのである。 初代の使途たちや真のクリスチャンたち、教会は地上の立てられたもの自身が神の座につい て礼拝を受けようとするとき、従うことを断固拒否した。 皇帝や偶像を拝まず、どんな器にも キリスト以上の位置には立たせず従わなかった。 器崇拝を拒否した。 それで迫害も受け殉 教者も多く出た。 それでも信仰に反しない限り、基本的には地上の権威や制度に従った。 それが神のことばに従うことだからである。 今日の教会においてもやはり神が立てた権威がある。 神が「ある人を使徒、ある人を預言 者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった。(エペソ人4:11^13)」と書 かれている。 牧師や教師など教役者は、神が教会に立てられた権威である。 聖書のみことばは新約時代の我々にも語っている。 だから我々クリスチャンも教会の中で神 が立てられた権威があることをしかと心得ておくべきである。 そうでないと「権威に逆らってい る人は、神の定めにそむいている」ことになるからだ。 「そむいた人は自分の身にさばきを 招」く。 恐ろしいことである。 また権威として立てられた者は、自分が神の座につくことがないよう注意を払うべきである。 自ら意識して神の座につくなどということは反キリストやそれに付随する者たちであろうが、信 者を思う熱心さのあまり、また自分の内に潜む罪に対して鈍感になっているために、無意識に 神の座についているということもあり得ないことではない。 いつのまにかキリストのことばより 牧師のことばの方が上になってしまっているという話しもよく聞かれる。 最終的権威は神にある。 権威は神によって立てられたものである。 だから、神はクリスチャ ンが権威に従っているかどうかを見られる。 神のことばに従っていくことができるためにも 日々、祈りつつ聖書を読み、祈りに祈って歩んでいきたいものである。 ★新約聖書 コロサイ人への手紙 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配 と権威のかしらです。 |
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