めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年9月7日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<しるし、不思議、奇跡には本物と偽物がある>


★新約聖書 第二テサロニケ人への手紙 2:9 ~2:11
       不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議
      がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜな
       ら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。 それゆえ神は、彼
       らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

旧約、新約聖書には様々な奇跡や不思議なわざ、しるしの記事が書かれている。 聖書は
奇跡を記した書といって過言ではない。 奇跡ということばは、しるし、不思議と同じ意味合
いで用いられている。 奇跡とは「常識では理解できないような、常識で考えては起こりえな
い、不思議な出来事・現象。」をいう。 

旧約聖書には、ノアの大洪水(創世記)、出エジプトのときの十の災い(ナイル川の水を血に変
えた、異常な数の突然の蛙の出現、ブヨ、アブの来襲、家畜の疫病、腫れ物ができる奇病の
発生、雹による災害、イナゴの来襲、三日間暗闇が全国を覆いつくしたこと、王パロの長子を
も含め、人も動物も、エジプトのすべての初子が死に絶えたこと)、紅海の奇跡、荒野でのマナ
の不思議、角笛を吹き鳴らすと城壁が崩れ落ちた(ヨシュア記6:20)エリコへの攻略、・・・多数
奇跡が記されている。

新約聖書にも、処女懐胎、カナの婚姻(ヨハネ福2章)、やもめの独り息子の生き返り(ルカ7
章)
、あらしを鎮める(マルコ4章)、ヤイロの娘の生き返り(ルカ8章)、5千人と5つのパンと2匹
の魚(マルコ 8章)、水上歩行(マタイ14章)、4千人と7つのパン(マルコ8章)、ラザロの死後4
日目の腐った死体からの復活(ヨハネ福11章)、盲人、らい病人、足なえのいやし、様々な病
のいやし・・・など多数奇跡が記されている。

聖書にはこのように多くの奇跡が記されているが、聖書をよく読むと奇跡やしるしの起こった現
象、奇跡行為が重要なのではなく、神を証しするためであることの方が重要であることがわか
る。 それらの不思議なことを通して、「確かに神はおられる」「確かに主は生きて働いておられ
る」ことを語っている。 人の目を引くことが奇跡の目的ではなく、奇跡を神よりも上に揚げるべ
きではないのだ。 

しかし、どうも当時の群集は奇跡を見て「驚いた」ようではあるが、ほとんど驚くばかりで、それ
らを見て「この方こそ主キリスト」と思った人は多くはなかったようである。 たとえば奇跡や不
思議なわざで病がいやされたのを見ても、また、実際いやされても、いやされて良かった良
かったで終わってしまっている。 

口では神に感謝だ、キリストに感謝だと言っても、奇跡でいやされた事実を見たり体験しただ
けで満足し、主が言われている「救い」には達していない。 キリストを見ているようで、実は
奇跡の方を第一に見ているという表れが「驚いた」であろう。 真の「救い」とは”罪からの救
い”であり、”神の裁きからの救い”であり”死からの救い”である。 

ペテロは「あなたこそ、キリストです(マルコ8:29)」と答えたが、イエスは、「あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ16:1
7)」
といわれ、マルコ8:30では「自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。」
とある。 なぜ、重要なことを話してはいけないのか。 それはこれらのみことばから、まだイエ
スの示される「時」が来ていないという理由が挙げられる。 しかし、ただそれだけではなく、イ
エス・キリストへの信仰は、恵みとして神から与えられるものであって、決して人間の努力の結
果勝ち取るようなものではないことも理由の一つに挙げられるのではないだろうか。 

奇跡を神よりも優先するということは2千年経った今日も同じである。 著者は13,4年前、当時
の教会の牧師命令でベニーヒンの集会へ行ったことがある。 アメリカで2万人の集会だった。 
盛大な音楽が演奏され聖歌隊により歌われ、大規模な集会だった。 彼が「タッチ」というと、
手を繋いでいる人たちが皆バタバタと倒れた。 癌がなおった、医者の証明書があるとか歩け
なかったのが今、歩けるようになった、車椅子はもういらないと奇跡がわが身に起こったなどと
壇上であかしをする者たちがいた。 当時は、「おかしいな?」くらいで見破れなかったが、その
後その教会を出てから、はっきり彼らは偽り者だとわかった。

聞くところによると、昨今はピーターワグナーを始めとする「第3の波」系の人々はそのような集
会では金歯が生えたとか、金粉が舞ったとか言っているらしい。 著者が行ったときより、ます
ます偽りが大々的に進んできているようである。 
 
著者が行った集会では、ベニーヒンは当時から神様、イエス、キリストと御名を呼んだり聖書の
みことばを言ってはいたが、病がいやされたこと、つまりしるしや奇跡を強調していたことを覚
えている。 彼らにとってはキリストは付け足しのような具合で、奇跡が高く揚げられていた。
後でHP「角笛」や「エレミヤの部屋」で知ったが、彼らは聖霊を下していたのではなく悪霊を下
していたという。 恐ろしいことである。 

さて、我々は真に神に依り頼み、キリストの信仰をいただいて「イエスは神の子キリストです」と
口で言うだけではなく、そのイエスに希望と信頼を置き、イエスとともに歩み続けることをしたい
ものである。

ヘブル人への手紙3:13のみことば『「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、
だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。』
のこの「きょう。」という日は、「今
日」であるだけでなく、「一日は千年のようであり、千年は一日のようである(2ペテロ 3:8)」のみ
ことばよりある1日について書かれている。 そして、それはまた、ある千年期に関するたとえ
で7つ目のミレニアム、今の時代について書かれていると思われる。 

そして今の時代、もうすでにベニーヒン、ピーターワーグナー、カルロス・アナコンディア、ロド
ニーハワードブラウン、ロバート・シューラー、ビルハモンなど聖霊の第三波系の器と呼ばれる
偽預言者が出現している以上、我々はキリストから目を離さないで、しっかりと従っていく必要
がある。 彼らの目的が、悪魔と同じでクリスチャンを地獄へと引きずり落とそうとするものであ
るからだ。 

しるしや不思議、奇跡やそれらを売り物にしている器たちに惑わされず、キリストを第一にして
真の救いを失わないようにしたいものである。 幸いにも奇跡があらわれたときには、「確かに
神はおられる」「確かに主は生きて働いておられる」と主に栄光を返し、ますます主の御前にへ
りくだって従っていきたいものである。 

★新約聖書   マルコによる福音書  13:22
       にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不
      思議なことをして見せます。

 ★新約聖書   第一ペテロの手紙  5:8
        身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのよう
        に、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。


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