めんどり通信/2008年7月27日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<天からのものを受け続けて天の御国への道を真っ直ぐに進もう> |
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 3:27 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできま せん。 3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわ ち人の子です。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話し た言葉は霊であり、また命である。 ●マルコ2章で中風の人が、イエスによって罪がゆるされ、いやされたことが記されている。 あらましはこうである。 中風の人が、四人の人に担がれてイエスがおられる家まで来たが、 多くの人々で中に入ることができなかった。 それで四人の人は、屋根をはがして病人を板に 乗せたまま、イエスのおられるあたりにつり降ろした。 イエスはこの四人の信仰を見られて中 風の人に罪のゆるしを宣言なさった。 ところが その場にいた律法学者たちがイエスに対し て心の中で非難を込めて理屈を言った。 それを霊で見抜かれたイエスは、イエスが地上で罪 を赦す権威を持っていることを示すために中風の人をその場でいやされたということである。 このことをたとえとして見るならば、まともに信仰の歩みができなくなり自分ではイエスのところ へ行けないクリスチャンが、四人のクリスチャンたちの、とりなしによってイエスのところへ連れ て行ってもらったということであろう。 そしてイエスは、この四人の信仰により、中風の人に罪 のゆるしを宣言された。 そのとき律法学者たちの非難する心をイエスはご自分の霊で見抜か れ、罪を赦すことと歩けなかった足が歩けるようになることと、どちらがやさしいかと言われ、父 なる神より罪を赦すことのできる権威を授かっていることを証明されるために中風の人をいや されたということである。 中風の人がまともに信仰生活を歩めなくなった原因が何か罪の問題があったようである。 罪 がゆるされるゆるされないということは、ある意味外側から見えるものではない。 いわば霊の ことといえる。 しかし、その霊のことが外側から見えることより重要であり、難しいことであるこ とを主は言われている。 永遠の命も信仰も聖霊も、そして悪霊さえも直接肉眼で見えるもの ではない。 しかし、それらは霊においては実際なのである。 人はどうしても自分の目で見える、聞こえる、感じるという外側のことに注目しがちである。 肉 眼で見えて、肉声を聞いて、肉で感じて、また自分の頭で考えてはじめて理解できるというの は、この普通の世界である。 しかしイエスが「ご自分の霊で見抜い(マルコ 2:8)」たとあるよう に霊の世界がある。 冒頭のみことばの「天からのもの」というのも、霊のものと言えるだろう。 聖霊によって与えら れるものである。 聖書自体が、霊のことを語っており、聖霊、悪霊のことがよく出てくる。 ま た、聖書のことばは「霊のこと(ローマ 7:14)」である。 だから聖書で病をいうときは、霊的な 病や罪を象徴していることが多い。 神はたとえでもって語っておられるのである。 「たとえに よらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明 かされた。(マルコ 4:34 ) 」と書かれている。 だから昨今、聖書のことばが、次々とことごとく現代のニーズやら世に合わせて改ざんされて いるが、そんなことは以ての外である。 例えば、「らい病」ということばは最近の聖書から除か れて違うことばになっている。 「ツァラアト」「重い皮膚病」とかに変更されているようだが、これ では神が我々に教えようとされるみこころを汲み取ることはできない。 「らい病」という病の特 徴などを通して神は、我々に 罪に関係すること、注意点、警告、戒めなどを語っておられる。 決して らい病に実際、かかっていた人を非難しているわけでも差別しているわけでもないの だが。 世も多くのクリスチャン、教会さえも、差別だ、偏見だ、・・・と神の愛もみこころも真理 も知ろうとせず、目に見える事柄にとらわれてしまっている。 さて、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚 かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によっ てわきまえるものだからです。(Tコリント 2:14)」と聖書が語っているように、霊のことは聖霊 によらなければ悟れないのである。 霊のことはこの世の知恵、常識、教育では100%全くわ からないことである。 それは聖霊によってわかるものであり、真剣に求める者には天からの もの、霊的な恵みを受けていく。 霊的な恵みを受けた者は、霊的体験をしていくこととなり、 キリストに対する堅い信仰となっていく。 しかし、人はわからないこと、霊のことをあたかも真実のように巧妙に話されるとすぐにコロッと だまされやすいものである。 死後のこともいわば霊の世界のことである。 イエスは言われ た。 「キリストだけが天から下ってきた。他はだれも天に上った者などいない。」と。 それなの に「霊界へ行った。天国は、ああだった。 地獄は、こうだった。」などとあたかも本当のことの ように話すだけでなく、霊界のことが教理になっていること自体、聖書のことばに、すなわち主 イエス・キリスト、神に敵対するものである。 にも関わらず霊界のことを事細かに書かれている本が多くなった。 その中でも多くのクリス チャンに影響を与えていると思われるスウェーデンボルグは、一大教理を築いているようであ る。 しかし、聖書によるならば聖霊による霊的体験はあったとしても、霊界へ行っての体験 云々などはどこにも書かれていない。 確かに死後、天の御国かハデス(地獄)かではある が、そこから帰ってきたことなど聖書のどこにも書かれていない。 臨死体験などは、その霊 界へのずっとずっと手前のことである。 ともすれば単なる幻や夢や想像、思い込みを真理と打ち出しているようなものである。 変な 霊にやられていのかもしれない。 聞くところによると「聖書的には、無理な教理を神の民に受 け入れさせたい」という時、 よく「幻」を持ち込むということである。 そして、それは悪魔の一つ の戦略であるということらしい。 そんな危険な教えを受け入れたならば、永遠の命が危なくな るのは当然であろう。 「(Uテモテ4:4)真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代にな」ったようである。 唯一、「だれも天に上った者はいない。天から下った者はイエス・キリストだけ」。 このことを しっかり覚えておきたいものである。 天からのものを受け続けていく者はイエスがご自分の霊で見抜かれたように、見抜くことがで きるようになる。 惑わしから逃れられる。 また、信仰がしっかりしてくる。 キリストへの信仰 がゆるぎないものとなり、真理の道をまっすぐに進めるであろう。 そのためには、とにかく祈る ことである。 時間をかけて真剣に祈り、聖霊に触れられることである。 また聖書を神のみこ とばと信じて読むことである。 そうするならば、狭い門から入って、真っ直ぐ続く天の御国への 道を歩んでいけるであろう。 ★新約聖書 マタイによる福音書 7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか らはいって行く者が多いのです。 ★新約聖書 ルカによる福音書 13:24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとして も、はいれなくなる人が多いのですから。 |
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