めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年7月6日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<今は公義と神への愛がなおざりにされている時代>


★新約聖書   ルカ による福音書  12:4,5
      そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何も
     できない人間たちを恐れてはいけません。  恐れなければならない方を、あなたがたに教
      えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさ
      い。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

★新約聖書  第一コリント人への手紙  13:13、14:1
       こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれている
       のは愛です。  愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求め
       なさい

マタイ23章でイエスはパリサイ人や律法学者たちを厳しく批判し、忠告している。 幾つかあ
るがその中でもルカ11章42節では彼らは「公義と神への愛」をなおざりにしていると言われ、
タイ23章23節
では「正義もあわれみも誠実」もおろそかにしている言われた。 公義は原語で
は裁きのことである。 正義もKJV訳では裁きのことである。

当時、パリサイ人たちは人を気にする、すなわち人からの評判を気にして生活も思考も何もか
も人に向かい、人の好むことを優先していた。 律法学者、パリサイ人といえば、律法の専門
家である。 今でいうならば、聖書のことを普通の人よりよく知っている聖書学者、神学校の教
授や牧師、教師など教会の指導者といえよう。 

本来、何事においても神へ方向を定め、神を第一としているのが当たり前の人たちである。 
ところが、当時、彼らは神にではなく人の方へ向いていた。 人の関心をかうことの方が優先
だった。 他の人の目を気にする、評判を気にして人を第一優先すると言っても、それは他人
ではなく結局、自分(たち)の思い、感情、考えが第一優先となっていたと言えよう。 だから、
自分が批判されないため、耳障りのいい話しをすることによって人から嫌われることを避けて
いたとも言える。 

確かに人が嫌がることといえば、それは「裁き」とか「裁かれる」ということばであると思われ
る。 著者が15,6年前だったと思うが、戸別訪問伝道をしていたとき、人が耳を傾けづらい話し
というのが、裁きのことだったと思う。 当時、所属していた教会は「死後の行き先」よりも「キリ
ストによって変えられる」ことを強調していたので、嫁姑問題、こどもの問題、対人関係、仕事上
の人間関係などの悩み問題などを抱えている人に伝道すると、よく話しを聞いてくれた。 しか
し、こと話しが死後の裁きのことになると嫌悪感をもろに表わす人が多かったと思う。

多くの人は「死とさばき」の死は認めるが、「さばき」は認めたがらないし聞きたくないようであ
る。 しかし、人が認めようが認めまいが、聞きたがろうが、聞くのを嫌がろうが関係なく、さば
きは昔から猶予なく行われてきた。(Uペテロ 2:3)
  そうは言っても実際、耳障りのいい話
しには人は耳を傾けやすく、集まって来やすいものではある。 しかし、それは神が望まれる
ことではない。

パリサイ人や律法学者たちは「神は愛だから」「神は恵みをたくさん下さるあわれみ深い方だ
から」など、そういうことを話していたと思われる。 そして、一方では「だから、ああしなければ
ならない。 こうしなければならない。」などと自分たちの言い伝えを強要していたと思われる。 
「神は愛である」とか「神はあわれみ深い」というのは、確かにうそではない。 事実ではある
が、当時、彼らは、自分中心、人中心のことのみを強調し、神のことばや、神の御心などを正
しく話していなかったようである。

当時の傾向は今日の教会にもあるのではないだろうか。 神は愛だから、人を裁くことなどそ
んな愛のないことはなさらないとか、一度キリストを受け入れてクリスチャンになったなら、裁か
れることなどなく、何をしたとしてもクリスチャンは神の子だから大丈夫、天の御国に入れるな
ど ・・そういうことをいう教会が多いと聞いた。 カトリックの煉獄思想、プロテスタントのセカン
ドチャンスなどは聖書の教えではなく、人の好む耳障りのいい人間の教えである。 

聖書にははっきりと「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘ
ブル 9:27)」、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自そ
の肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(2コリント 5:10)」
と書か
れている。 
 
またその一方で、カソリックや、プロテスタントのホーリネス系の教会は、罪が許されるために
は、罪を牧師や人の前で告白しなければならないなどと教えているという。 ホーリネス系の教
会では時には完全なきよめなどということも言って、人に解放どころか重荷を負わせている。 

罪を牧師や神父に告白して悔い改め救われた人が、その教会を離れようとするといつの間に
かその告白した罪の内容が教会の中で知れ渡っていて苦しんだということも聞いたことがあ
る。 また、そういうことのため教会を離れることができかねるということも聞いたことがある。 
牧師など人前での罪の告白が、許されたという平安より、いつばらされるかという恐怖心の
方が強くなるなどとは、そのようなものはもはやキリスト教ではない。 

さて、神はすでに私たちを愛してくださっている。 神はそのひとり子を世に遣わし、その方に
よって私たちに、いのちを得させてくだ
さる。 それは私たちが神を愛したのではなく、神が私
たちを愛し
てくださったからである。(Tヨハネ 4:9,10)  「神への愛」と「神の愛」とは違う。
確かに「神は愛」である。 しかし、神が我々人に望まれているのは、人が神を愛する「神への
愛」
である。 それを神は高く評価してくださる。 その心があるかないかが、分かれ道といって
も過言ではないと思われる。 主を三度裏切ったペテロは回復し、一度裏切ったイスカリオテ
のユダは滅んだ。 ペテロは自分の力量も本質も知らず失敗だらけだったが神は引き上げてく
ださった。 ペテロは主を心から愛していたからである。 失敗するたびに、主の御前に悔い改
めへりくだった。 失敗しながらも主に従い続けて行った。 

「神への愛」は、神から恵みをどれだけ受けれるかという自分中心のことではなく、神のため、
どれだけ自分をささげるかという、神が一番!自分より主が優先!ということである。 そのこ
とは損なように見えて実は損などではない。 むしろ、恵みなのである。 ペテロが、「わたしを
だれと言うか。」と主に尋ねられたとき、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。(マ
タイ 16:16)」
と答えた。 するとイエスは「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあな
たに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ 16:17)」
と言われ
た。 我々の神は、神への愛さえ求める者には与えてくださるあわれみ深いお方である。 

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
(ヨハネ福15:13 )」
と主は言われたが、その友とはイエス・キリストのことである。 主は「 わた
しがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハ
ネ福15:14)」
と言われたからだ。 

我々は聖書が勧めている「神への愛」を求めていきたいものである。 そして主を愛していきた
いものである。 神は、神を愛する者を愛してくださる。 神に愛された人は幸いな者である。 
どんな災いからも守られ、どんな惑わしからも守られるであろう。 確実に天の御国へ行けるで
あろう。 いよいよ、時間をかけて祈り、聖書を読んでいきたいものである。

★旧約聖書  詩篇 145:20
   すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。


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