めんどり通信/2008年6月29日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <祈りについて> |
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★新約聖書 マタイによる福音書 6:9 ~6:13 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあな たのものだからです。アーメン。〕 ●イエスはよく祈られた。 朝早くまだ暗いうちに起きて祈られたり、夜を徹して祈られたり、寂 しい所や荒野や山で祈られた。 あるとき弟子が「祈りを教えてください。」と言った。 主イエス は『主の祈り』といわれる上記の祈り(マタイ6:9 ~6:13)を弟子たちに教えられた。 この『主の祈り』は、それのみを繰り返していれば間違いない、それのみ繰り返すことが祈りで ある、というのではない。 この祈りをすることは重要であるが、それだけでなく、主は我々が具 体的に示された祈りの手本を通して、一人ひとり自分の言葉で、主の望まれる祈りができるよ うになってほしいと願っておられる。 主イエス・キリストを信じて信仰生活をしていくにおいて、祈りは大切というより”必須”である。 その人が本当に主を信じているかどうか、信仰に立っているかどうかの目安は、祈りをしてい るかどうかによると言っても過言ではない。 それも生活の中で時々、片手間程度の祈りでは なく、日々祈っているかどうかである。 また、ある程度、時間をかけるということも大切であ る。 祈ることによって、我々に聖霊が触れてくださる。 日々、祈ることによって、聖霊が働き始め てくださる。 聖霊に触れられて人は清められる。 祈ることによって、祈りに答えてくださるキリ ストを知ることができる。 その回数が増えれば増えるほどもっと深くキリストを知ることができ る。 祈ることによって、御父および御子イエス・キリストと交わることができる。 だから”主イ エス・キリストを信じている”という者は、日々祈っているはずなのである。 ”主イエス・キリスト を信じる”というのは、主によりすがることであり、主を愛することであり、主のみこころに従うこ と(Tヨハネ 5:3)だからである。 マタイ5章から7章に書かれている山上の垂訓(さんじょうのすいくん)の中でイエスは主の祈り のほかに、祈ることについてよくよく注意すべきことも語っておられる。 一つは、パリサイ人の 偽善の祈りである。 人々の目を意識し、人々から賞賛を得るためになされ、すでに報いを受 けてしまっている祈りである。 パリサイ派の人々は、伝統的に、毎日最低3回祈りをささげる。 朝の祈り、午後の祈り、夕べ の祈りである。 当時、ユダヤ社会では、祈りが自分の立派さや信仰深さを見せびらかす手段 となり得たようで、彼らの祈りは周囲の人々の目を気にしたものになってしまっていたようだ。 だから主は、「祈るときには自分の奥まった部屋にはいり、隠れた所におられる神と一対一で 向かい合うようにして祈りなさい。(マタイ 6:6 )」と言われた。 約12年前、著者が泊りがけである聖会に出席したとき、一人の婦人牧師が午前の集会が始 まる前に祈っておられた。 大きな声で祈っておられたので声はよく聞こえるが、何を言ってい るのか?の感じだった。 申し訳ないが、お経のようなまじまいのようなリズムとことばに思え た。 そこにその教会の信者さんが来られると、ピタッととても潔く祈りを止められ、何か笑いな がら会話され、その信者さんが去っていくと、少し周りをきょろきょろ見て、また独特なリズム調 の祈りが始まった。 集会の時間が近づいてきていたので、人がその会場に増えてきたが、そ んなことは我感知せず、という感じで祈り続けておられた。 当然、会場に入ってきた人は、そ の牧師に注目した。 心からの祈りという感じは受けなかった。 思わず、パリサイ人の祈りを 思い浮かべた記憶がある。 さて、主ご自身は、祈るために山や荒野へたびたび一人で行かれた。 ”世”から離れて父な る神との時を持たれた。 祈りは、自分を「世から分離」し、主なる神との貴重な交わりの時で ある。 もちろん、主と「一対一」というのは、「主と自分」というだけでなく、「主と一つの集まり」 ということでもある。 マタイ 18:19,20に「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、 あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの 父は、それをかなえてくださいます。 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、 わたしもその中にいるからです。」と主が言われたからだ。 さて、祈ることについてよくよく注意すべきもう一つは、異邦人(異教徒)によく見られるようなご 利益のみを求めたくどくどした祈りである。 いつもご利益中心だけの祈りに焦点を定めて祈っ ていくならば、欲深く自分の利益だけを考える自己中心的な者になってしまう。 主イエス・キリ ストを信じて間もないときで、キリストの恵みをあまり知らないときには、そういう祈りになりがち であっても大して差支えがないと思われる。 ご利益信仰的と思っても自分の願いを申し上げ て、祈って答えられる、ということを体験することによって、主イエス・キリストのことをより深く知 る手立てになるかと思われる。 しかし、いつまでもいつまでもそのような繰り返しだけであってはならない。 願いであっても自 分中心というのではなく神のみこころに沿ったということが大切である。 第一ヨハネの手紙 5:14に「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるというこ と、これこそ神に対する私たちの確信です。」とある。 また神の方が我々のことをよくご存知だから、我々にとってそのとき何が必要であるのかを一 番よくご存知なのは、神である。(マタイ 6:8 ) だから、我々は願いを申し上げたとき、”みここ ろのままに”とその祈りを主にゆだねることも重要である。 その一番良い模範は主のゲツセ マネの園での祈りである。 「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、 この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころ のままを、なさってください。(マルコ 14:36)」 また「祈るとき、・・同じことばを、ただくり返してはいけません。(マタイ 6:7)」と主は言われた が、祈りがご利益信仰と結びついて、まじないのようになってはいないかということにも注意す べきである。 ヤベツの祈り、というのを受け入れているキリスト教会やクリスチャンがあるよう だが、これこそこの主が言われた危険な祈りであろうと思われる。 聞くところによるとヤベツ の祈りは、何週間、何ヶ月、何年も同じことばを繰り返す、魔術的な祈りであるという。 こんな 惑わしにひっかかって永遠の命を失うことのないようクリスチャンは極力、気をつけるべきであ ろう。 他にも主は祈りについて我々に教えてくださっている。 たとえば「主よ。私たちをあわれんでく ださい。」とイエスに求めた盲人に、「わたしに何をしてほしいのか。」と言われた。(マタイ20:32 ) イエスは我々が主に求めるときに”何を、どうしていただきたい”と具体的に祈ることをもこ こで教えておられると思われる。 また、ゲツセマネの祈りのときイエスは弟子たちに「一時間 でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。(マタイ 26:40、マルコ 14:3 7)と言われた。 このとき1時間祈っていたならば、もしかしてこの後、弟子たちは主を置き去 りにして逃げることはなかったかもしれない。 あくまでも推測ではあるが、やはり日々1時間 祈れることを目ざしていくことは、クリスチャンにとって必要なことと思われる。 とにかく、聖霊の助けと導きを得るために日々、時間をかけて祈っていきたいものである。 全 能の神に、主イエス・キリストに心から真剣に祈り求めていきたいものである。 ★新約聖書 コロサイ 3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるも のを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。 ★旧約聖書 詩篇 6:9 主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。 ★新約聖書 第一テサロニケの手紙 5:17 絶えず祈りなさい。 |
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