めんどり通信 / 2008年4月20日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! |
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★新約聖書 マルコ による福音書 16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、 福音を宣べ伝えなさい。 ★新約聖書 (新共同訳) マタイによる福音書 5:25、26 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人は あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにち がいない。 はっきり言っておく。最後の一コドラントを返すまで、決してそこから出ること はできない。」 ●世はますます悪くなった。 時代が西暦2千年に入り、世界の状況も人も目まぐるしく変わっ てきたように思われる。 良い方向に変わるならばいいのだが、どうも昨今、日々知らされる ニュースからみても決して良い方向に変わったとは言えない。 聖書の黙示録9:15に「すると、 定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺す ために解き放された。」とあるが、実際、もう四人の御使い(悪霊)が解き放されたのではない かと思われるくらい、世は悪くなっている。 旧約のアブラハムの時代、ソドムとゴモラの町は繁栄していたが、道徳的にも相当、腐敗して いた。 ソドムの町の人々のひどい不道徳と不品行について創世記の19章の4節から9節に書 かれている。 またローマ人1:26,27に「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡され ました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨 てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対す る当然の報いを自分の身に受けているのです。」とあるが、紀元1世紀のローマ帝国が繁栄し ていた時代も同様のことが行われていた。 歴史は繰り返すといわれるが、このことは現代においても同様である。 現代では、国を挙げ て聖書が禁じているこれらのことを、むしろ擁護している。 今の時代は性転換をして男と女を 入れ替えることもできるし、性同一障害という病名まである。 さて、当時、神は長年神に背いていたソドムとゴモラの町を滅ぼす計画をアブラハムに打明け た。 そのときアブラハムは「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽く されるのですか。(創世 18:23)」とたずねた。 そして「全世界をさばくお方は、公義を行なうべ きではありませんか。」と問いかけた。 そして堕落した町の人々の救いのために、熱心にと りなしをした。 正しい者が50人いるなら、45人、40人、30人、20人、そして最終的には10人 まで、町を滅ぼさないでほしいと、とりなしの祈り(願い)をした。 神はアブラハムの真剣な問い(=祈り)に誠実に答えて下さった。 ただ、ソドムとゴモラの町 には正しい者が最低ラインの10人さえいなかったようである。 結局、火と硫黄で滅ぼされてし まった。 しかし、とりなしの祈りをささげていくことは、それは神の望まれるこニであり、目を留 められることである。 聖書には「金持ちとラザロ(ルカ 16章)」など人が死後、天国か地獄か、いずれかへ行くことが 記されている。 また、人がこの地上にある人生の道の間に神と和解、すなわち罪を悔い改 め、主イエスを信じて、イエス・キリストの十字架の血によって赦されておかなければ、神のさば きから逃れることができないとも多くの箇所で書かれている。「律法なしに罪を犯した者はすべ て、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。 (ローマ 2:12)」「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。(ローマ 14:10 )」「そ して、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」 死後一度、神の前に出たならば、人生のやり直しはできない。 だからキリストを真に知ってい る者は必死に家族、親族、友人、知人に知らせる義務がある。 パウロは「わたしが福音を宣 べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。 もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。(1コリント 9:16 )」とまで言っている。 今の時代は人の上にも世全体にも おおいがかぶされている状態であろう。 しかし、聖書は 「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済 むものはありません。(ルカ 12:2 )」「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるの です。(Uコリント 3:16)」と語っている。 おおいを取り除くことができるのは、アブラハムのようなとりなしの祈りである。 先にキリストを 知った者は 知らせるためにも、とりなしの祈りをすべきであろう。 知らせるとき、伝えるとき 永遠のことを考えると 強制したいくらいだが、しかし神は強制をすることを望まれない。 あく までも その人の自由意志を尊重される。 その人に問われている。 本当に救われたいのか? 本当に地獄へ行きたくないのか? 本当に神を求めるのか? 先にキリストを知った者が主に従っていき、神の恵みやキリストを体験して、真剣に知らせるべ きである。そのためには、自分のためにも祈り、そしてとりなしの祈りもするべきである。 主キ リストを受け入れたと言っても、キリストを体験していない、神の恵みに預かった経験もないも のは、真剣に主に祈り求めるべきであろう。 主は求める者には必ず与えてくださる。 聖書が語っている最大の救い、それは罪と罪の力、それに対する裁きとしての、永遠の死、滅 亡の地獄からの救いである。 一番の要は 永遠のいのちを得ることなのである。 本当に、 自分だけでなく、家族も親族も友人も知人も滅んではならない。 神のみこころが「神は、すべ ての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられ(Tテモテ 2:4)」るからである。 日々、絶えず、主に頼って聖書を読み、聖霊に導かれて祈っていきたいものである。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通し てでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 ★新約聖書 第二テモテの手紙 4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶え ず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。 |
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