めんどり通信 / 2007年11月18日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! |
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★旧約聖書 詩篇 103:3^5 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴 から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満た される。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。 ★旧約聖書 詩篇 30:2 私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。 ●新約聖書の4つの福音書の中で、イエスが悪霊を多く追い出し、多くの人の様々の病気と痛 み、あらゆるわずらいを直されたことが記されている。 多くの人が実際、いやされ、悪霊を追 い出してもらったから、イエスのところへ人々が集まってきた。(マルコ 3:10 ) 聖書で病というとき、実際の病気ということの他に、霊的な病を象徴している。 霊的な病に なっていると、神のことばを素直に受け取れなかったり、反発したり、曲げてしまったりする。 要は正しい信仰の道を歩めない。 それは悪霊にすっかり惑わされている証拠である。 いやされて盲人の目が見えるようになるとは、何が真に大切か見えるようになるということであ り、足なえが歩けるようになるとは、信仰生活をまともに歩めること、 らい病がきよめられると は罪から解放されること、つんぼの人が聞こえるようになるとは、神が語っている言葉を聞くこ とができるようになるということである。 また、実際の病も悪い霊が関与していることが多いと思われる。 肉体の病気、精神病や心の 病気などすべてに悪い霊が関与しているとは言えないと思うが、聖書には「病の霊」につかれ 18年も腰が曲がって、伸ばすことのできない女がイエスによっていやされたことが書かれてい る。(ルカ13章) また、イエスは「熱をしかられたり」(ルカ 4:39)、「おしの霊」(マルコ 9:17 )な どと、一般に病気といわれるものの中に悪い霊が関与している事例が書かれている。 我々は病気のとき病院へ行ったり、薬を飲んだりする。 それらをしてはならないということでは ない。 ただ、基本的なことは、病ならばイエス・キリストのところへ行く、ということである。 昨 今、癌が多いが、聞くところによると、抗癌剤の効く、効かないに個人差があり、副作用の強さ にも個人差があるという。 結局、医学が発達しても、様々な原因や治療法が見つかったとして も未だに神のみぞ知るという分野もあるようである。 神によらなければならないということもあ るようだ。 悪い霊が関与しない他の原因によって起こる単なる病気であっても、聖書の基本は、病ならば イエスの元へ行く、ということである。 ましてや、悪い霊が関与しているならば、聖霊によらな ければ解決されない。 霊の問題は聖霊によって解決されるものである。 ★新約聖書 ヤコブの手紙 1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すな おに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。 ★新約聖書 マルコ による福音書 9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出 せるものではありません。」 ●今ほど(悪い)霊の力が働いているときはない。 クリスチャンであろうと未信者であろうと、 悪い霊の影響を受けているときには まともに歩めない。 霊の影響を受けずに正しい道を歩 んで行くためにはどうしたらよいであろうか。 聖書でたとえとして、悪霊が入りやすい動物は豚であることが記されている。 豚はひづめが 分かれているが、反芻(はんすう)しない。(旧約聖書 レビ記11章) ひづめが分かれている、 これは、この世と分離していることであり、ある意味クリスチャンになることである。 反芻しな い、これは、みことばをよく食べない、つまり聖書をよく読まない、ちゃんと読まないことである。 神のみことばをきちんと読んでいないと道をそらさせてしまうような人間的な教え、耳障りのい い教え、変な教えに惑わされ、とりこになる。 神のみことばを毎日、ちゃんと読んでいき、みこ とばに触れていくなら惑わしから逃れられるであろう。 聖霊が守ってくださるであろう。 また、マルコ5章、ルカ8章に大ぜいの人が押しせまって キリストにさわったが、イエスの着物 のふさにさわった12年間も長血でわずらった女がいやされたことが書かれている。 このときイ エスは言われた。 「わたしから力が出て行くのを感じたのだ。(ルカ 8:46)」 12年間も長血で苦しんだが、イエスの着物のすそに触れたとたん、一瞬にしていやされた。 聖書をみると、イエスがいやされたり、悪霊を追い出したりは、じわじわというのではなく、一瞬 のことである。 また人から見てさわるというのと神から見てさわるというのとでは違う。 さわ る、つまり祈るということであるが、病がいやされたから信仰があるとは一概には決められない が、ある面、祈っているというのとイエスが祈りを聞かれたというのは違う。 キリストから我々の内に力が出て行くように祈っていくなら、一瞬にして主が奇跡のみわざをあ らわしてくださるときが来ると思われる。 悪い霊が関与している場合は、忍耐をもって祈りを積 んでいくことが大切と思われる。 祈りの中で聖霊に触れていくとき、我々は主のみわざを見 る準備、奇跡を体験する準備をしていると言えるかもしれない。 そして時が来たならば「わたしから力が出て行くのを感じた。」との主の力を体験するであろう。 神に信頼し続け、祈りの中で聖霊によってきよめられていき、毎日 みことばに触れて強めら れていきたいものである。 ★新約聖書 ヤコブの手紙 5:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、も しその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。 |
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