めんどり聖書研究会/めんどり通信


  めんどり通信 / 2007年11月11日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!



★新約聖書 エペソ人への手紙  5:30~32
       私たちはキリストのからだの部分だからです。
       「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
       この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

★旧約聖書     イザヤ書  54:5
       あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの
       聖なる方で、全地の神と呼ばれている。

●昨今、離婚が多くなったように思われる。 ネットで調べてみると1970年の離婚率(離婚件数/
婚姻件数)は婚姻件数全体の約10%だったが、30年経った2000年には約32%、2003年には
約38%に達している。 社会の結婚・離婚に対する風潮や考え方が変わって、夫婦はいったん
結婚したら一生添い遂げることにこそ意義があり、よっぽどのことがない限り我慢すべきだとい
う考えは古くなってきたのだろう。  

また離婚に対する社会の風当たりが昔ほど強くなくなってきたので、離婚したことに引け目を感
じることも少なくなってきたことも一因と考えられるようだ。 その上、生活や就労環境の多様化
も進み、以前に比べ社会に出ている女性が増え、離婚が負担にならなくなったことも一因として
あげられるようだ。 

お互い違う環境で育った者どうしだから、時には+と−、陽と陰、というところもあり、引かれな
がらも反発するということは当然であろうと思われる。 それでも、たとえば夫は「やりすぎた」、
妻は「夫の感情を逆なでするような言動を発した」というように、互いに謙虚な気持ちで、相手
の気持ちや考え方を尊重して、一歩引いたところから考えてみることも必要なのではないかと
も思われる。 離婚の理由にやむを得ない場合もあるようだが、いずれにしても離婚をしなくて
すむならそれが一番いい。 

★新約聖書 ローマ人への手紙    2:5
        ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神
       の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

●さて、離婚について聖書では、基本(原則)的には、離婚はすべきでないと書かれている。 
「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。(コロサイ 3:18 ) 」「夫たちよ。妻を愛し
なさい。つらく当たってはいけません。(コロサイ 3:19 )」
とある。 世の夫たち、妻たちがこの
みことばどおりできたなら離婚はないであろう。 しかし現実はなかなか難しい。 

新約聖書マタイ19章マルコ10章に、パリサイ人たちがイエスを試みて「モーセは離縁状を
書いて妻を離別することを許したが、あなたは離婚は許されるかどうか。」と尋ねている場面が
ある。 主イエスは言われた。 「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別
することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。(マタイ
 19:8 )」
と。 

もちろん、それは第一義的には、夫と妻の離婚について語っておられるが、そこにはたとえとし
ての第二義的意味合いがある。 冒頭の聖書箇所(エペソ 5:30~32)からわかるように、結婚
は重要なことである。 キリストと教会、クリスチャンの関係について語っているからである。 

主イエスは、夫(キリスト)が妻(教会、クリスチャン)を離別することがあり得るということを語っ
ておられる。 モーセは、みことば、律法、神のことばとしての型である。 クリスチャンがキリス
トから離別されるのは、教会、クリスチャンがみことばに従わない、みことばを行わない、つまり
心がかたくなだからであると語っておられる。 心がかたくなだから、自分の考え、感情、思い
のままに他のものを優先し、それに頼って、神のことばを優先しない、キリストに頼らない、だか
らキリストから離縁されると言っておられる。 

本来クリスチャンは一人では生きていけるものではない。 聖霊に助けられ、導かれるから、
本当の意味で生きることができるのである。 たとえ聖書を読んでいたとしても、礼拝のために
教会へ通っていたとしても、奉仕をしていたとしても、主に頼らず自分の力量でできる者は、神
から見ればクリスチャンとはいえない。 クリスチャンとは、原語ではクリスティアーノス「キリス
トに従う者」という意味である。 だから、主に頼っている者、主に従っている者、聖霊によって
導かれている者が、クリスチャンといえるのだ。 聖霊によって一つになった者を引き離しては
ならない。 

我々は、離婚された教会を見分けていかなければならない。 なぜなら、それと一緒になる(か
かわりを持つ)と神が忌み嫌われる姦淫(かんいん)の罪を犯すことになるからだ。 キリストに
離縁された教会には、食べるものがない、つまり人を真に生かす命のみことば、メッセージが
ない。 

飲むものがない、つまり人を真に生かし導く(聖)霊がない。 着るものがない、つまり(神の)義
がない。 我々自身も吟味してみる必要がある。 命のみことばを食べているかどうか、聖霊を
飲んでいるかどうか、神の義に従っているかどうか。(ローマ 10:3) 命のみことばを食べ、聖霊
を飲んでいるなら、聖霊の助けを得てみことばを行い、主に従うことができているであろう。 

もし、そうでないなら、キリストに離縁されているおそれがある。 キリストと婚姻関係が続いて
いる者が、ゴールである天の御国に入れるのである。 日々、絶えず祈り、主の御前にへりく
だって、聖霊の導きに従いたいものである。 

★新約聖書   マルコ による福音書  10:7 ^9
       それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もは
      やふたりではなく、ひとりなのです。
       こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」



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