めんどり聖書研究会/めんどり通信


  めんどり通信 / 2007年10月14日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!



★新約聖書  第二ペテロ の手紙  3:9
       主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるので
      はありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも
       滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

★新約聖書 ローマ人への手紙  8:34 
        ・・・死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座
    に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。


民数記22章の預言者バラムを乗せたろばがものを言った、というところでも教えられること
が多い。 預言者バラムがモアブ国の王バラクの要請(ようせい)に従って王のところに向かっ
て行った。  途中、神の怒りが燃え上がり主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふ
がった。 それを見たろばは避けようと道をそれて畑の中に行くと、バラムはろばを打って道に
もどそうとした。 それからろばは石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、
バラムはまたろばを打った。 結局、ろばはうずくまってしまった。 そこでバラムは怒りを燃や
して、杖でろばを打った。 すると主がろばの口を開かれたので、ろばはバラムの間違いをとが
めた。 「ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをは
ばんだ」
ということである。(Uペテロ2:16)

ろばが回避(かいひ)しなければ、バラムは殺されていた。 この箇所のろばは、聖霊をあらわ
すと思われるが、ここで一つには、我々がこの地上の道を歩むにあたって、いかに聖霊の働き
と導きが必要であるかを語っていると思われる。 

この地上の歩みは真に主イエス・キリストを信じるクリスチャンにとっては、天の御国までの旅
路である。 この旅路には聖霊の働きと導きが必要である。 この地上の歩みにおいて、人は
様々な重荷や問題に悩まされることも多いであろう。 現代においては常識さえも崩れてきてお
り、モラルも何もあったものではないということは、多くの人が認めるところである。 ストレスの
かかる状況で心の平静を保ち、どのようなことがあっても心の平和を保つことなどは相当なエ
ネルギーのいることであり、とうてい無理な話であろう。 またエネルギーを出せば解決すると
いう単純なものでもない。 

間違った道へといざなわれるのも仕方がないというような世になったとも思える。 しかし、そう
は言っても、人生間違った道へ最後まで行くこと、間違った選択を最後まですることは、滅びへ
と向かってしまうので、恐ろしいことである。 途中で気づけばいいのだが、なかなか難しいよう
である。 しかし、神様はあわれみ深い方で、求めてくる者に間違いを気付かせて下さり、正し
い、間違いのない選択、道を教えて下さる。 

聖霊は我々を「運ぶ」方である。 ろばが目的地まで、人を運ぶように、聖霊なる方も我々を
「天の御国」へと運んで下さる。 それも我々のこの世における重荷をも共に運んで下さる。 

ここで、もうひとつ注目したいのは、ろばは、バラムに不当に打たれながらでもバラムを振り落
とさなかったということである。 バラムを乗せたままうずくまった。 うずくまってバラムが殺さ
れることから回避させても、そのバラムから打たれた。 この光景に我々の罪のために打た
れ、十字架にかかられたイエスが二重写しのように感じるのは思い過ごしであろうか。 

このとき確かにバラムの心の奥には欲があった。 しかし、神はご自身の御心、すなわちモア
ブの王バラクがイスラエルの民をのろわせようとしたそののろいを祝福に変えるまでは振り落
とさなかったのかもしれない。 また真の悔い改めの機会を与え、それを待っておられたのかも
しれない。 この後バラムは神の言われるとおりイスラエルの民を祝福した。 

欲を心の内に秘めた預言者バラムでもこのときは、ろばから振り落とされなかった。 ましてや
主イエス・キリストを信じ、主に従いたい、主の御心を行おう、行いたいという者が聖霊のろば
に乗ったなら、主は忍耐強く導いてくださるであろう。 

しかし、人は自分でも気づかないうちに罪を犯している。 クリスチャンでさえ罪を犯してしまうこ
とがある。  しかしろばに乗って主の道を歩んでいる途中、自分でも気づかない罪を犯してい
たときには、聖霊のろばが教えてくださるであろう。 ときには足が何かに押し付けられて痛い
目にあってわかるということもあるかもしれない。 ろばが我々を乗せたままうずくまり、立ち止
まられて、進めないことがわかって、罪を犯したことに気づくかもしれない。 

いずれにしても、我々が悔い改めて目線をろばと同じ前の方向を見るなら、またろばは我々を
乗せて歩み出してくださるのである。 しかし、痛い目にあったその事柄だけに心をとらわれて
いたり、進めない理由を自分の感情や考えなどで解決しようとして、いつまでも悔い改めない
ならば、振り落とされることになるかもしれない。 また、ろばと同じ目線で前を見ようとしない
なら、自らろばを降りているということになる可能性が強いといえよう。 ちなみにバラムは、後
ほどますます金銭の欲が強くなったようで、モアブおよびミデアンの婦人にイスラエルの男子
を誘わせ、恥ずべき罪に陥らせ、この為、彼は殺害された。 

とにかく、我々は主イエス・キリストを真に信じて、日々、ろばに乗って、つまり聖霊の導かれる
ままに歩んでいきたいものである。 そして、たとえ罪を犯してしまったとしても、ただちに悔い
改めて聖霊と同じ目線で見る。 そうすると、どんなことがあったとしても、確実に「天の御国」へ
と進ませてくださっているのである。 私たちのためにとりなしていてくださる聖霊を悲しませた
くないものだ。 主の御前に素直になっていきたいものである。

★新約聖書 ローマ 人への手紙  8:27
   人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、
      御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

★旧約聖書  詩篇   103:8
   主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。


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