めんどり聖書研究会/めんどり通信


  めんどり通信 / 2007年10月7日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!



★新約聖書  第一テモテ の手紙   2:1
      そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い
       地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

●ザアカイは聖書の登場人物でよく知られている人の一人である。 当時、税金を取り立てる
取税人はゆすりたかりのたぐいは日常茶飯事だった。 ザアカイは「取税人のかしら」だった
が、これは、偉いというよりは、むしろ悪く、それも一番社会から嫌われていた人の代名詞で
あったようである。  

ザアカイがイエスに出会ったのは、イエスがエリコの町に来られたということを聞いて、どんな方
か見てみようと通りへ出かけて行ったことから始まった。 そこはすでに大ぜいの群集がひしめ
き合っていた。 それで彼はいちじく桑の木に登った。 するとイエスがちょうどそこに来られた
時、上を見上げて木の上のザアカイに「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家
に泊まることにしてあるから。(ルカ19:5)」
と声をかけられた。 

大喜びでイエスを迎えたザアカイは、主に、自分の財産の半分は貧しい人に施し、不正の取立
てをした分は4倍にして返すことを、自ら申し上げた。 いわば、主に悔い改めをしたのである。 
その後の彼の生き方は神に喜ばれるものとなったにちがいない。 なぜなら主が「きょう、救い
がこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して
救うために来たのです。(ルカ 19:9,10 )」
と言われたからである。 ザアカイという名には”きよ
い人、正しい人、純粋な人”という意味が込められていたが、まさしく、その名前どおりの者にし
ていただいたということである。  

★旧約聖書    イザヤ書  66:2
        ・・主の御告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにお
     ののく者だ。

●イエスに見つけていただくことがポイントのようである。 神が捜して下さる、声をかけて下さ
る「失われた人」とは、新約聖書第一コリント人への手紙の1章「この世の愚かな者、この
世の弱い者、この世の取るに足りない者、見下されている者、無に等しいもの」
と記されてい
る。 このことは、実際そのような者というだけでなく、心の中で自分はそのような者、罪人であ
るとへりくだった者のことである。

この世には様々な種類の人々がいる。 賢いと言われる人々、良い人、やさしい人、偉い人、
穏やかな人、腰の低い人・・・・など。 しかし、この世の人々が絶賛するような人であっても、
人の見方と神の見方はどうも違うようである。 旧約聖書詩篇エレミヤ書などには、神が
すべての人を見られたとき、「善を行なう者も義人も悟りのある者もひとりもいない。 むしろ、
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」
と記されている。  

今、主イエス・キリストを救い主、わが神と信じている者はいわばイエスに一度、見つけていた
だいたと言える。 そして、この地上生活をキリストのうちにとどまり続けて歩むなら、必ず永遠
の昔から約束してくださった永遠のいのちに預かることができるであろう。 しかし、まだ主を受
け入れていない多くの人々はどうなるのであろう。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル 9:27)、 私たち
はみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行
為に応じて報いを受けることになるからです(2コリント 5:10)、全世界が神のさばきに服する
(ローマ 3:19)、律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯
した者はすべて、律法によってさばかれます(ローマ 2:12 )」
などのみことばから見ると、イエス
に見つけていただくことは地獄へ行かないためには必須のようである。

★旧約聖書 第一サムエル記  16:7
         しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはす
        でにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主
         は心を見る」。

●見つけていただくことが重要といっても、様々な理由でイエスのところへ行けない人も多いの
ではないかと思われる。 今日のように多くの人が、世全体がおかしくなってきたのではない
か、と認める現代、また人の罪悪感が薄れてきて、多くの人の良心のマヒ化が進んでいる現
代、善と悪の差、違いなどがわかりづらくなってきたように思える現代。 無数の魅力的な世の
ものに惹かれ、感化され、多くの人々の考えが変わってきたように思われる。 神のことばをき
ちんと伝えなくてはならない教会までもが、世に合わし出すということが見受けられるようにな
ったというのを聞いたことがある。 

そういう世にいるから、真の神のことば、主イエス・キリストの救いが伝わりにくくなっているかも
しれない。 しかし、世にはまだまだ神が「失われた人(神が救おうとされている)」がいると思わ
れる。 主が言われる「失われた人」というのは、神から見られたら、へりくだる用意のある人か
もしれない。 嫌われ者のザアカイが名前の意味のとおりの純粋、きよい者にされたということ
は、いわば人が見える外側の部分だけ見ていたのではわからないということだと思われる。 
神は心の奥底を見られている。 

★新約聖書 ローマ人への手紙   8:34
       罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方である
   キリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

マルコによる福音書に四人の人にかつがれてイエスのみもとに連れてこられた中風の人が
いやされたことが書かれている。 大勢の人々でイエスのおられる家の中に入れなかったの
で、四人は屋根をはがして、中風の人を寝かせたままの床をイエスの前につり降ろした。 イエ
スは中風の人ではなく四人の信仰を見ていやされたと書かれている。 このことから、中風の
人(立って自分からイエスのところに行けない人)を連れて行ってあげること、それはすなわち、
その人のためにとりなしをするということである。 ”とりなしの祈り”<人が主のところに行ける
ように、救われるように、主に対して心が開かれるように・・・・などの祈り>を我々クリスチャン
がすることを主は望まれている。 

主イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンでも罪を犯すことがある。 だから主は今もな
お、我々のためにとりなしをしてくださっているのである。 主イエス・キリストを信じてない者は
まず、主を自分の救い主として受け入れ、すでにクリスチャンの人は、誰かのためにとりなしの
祈りをすることをしていくべきである。 「とりなしの祈りをする」ことは、キリストの中にとどまり
続けるための一つの要因であろうと思われる。 祈っていきたいものである。

旧約聖書  イザヤ 書 53:12
   それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかち
   とる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。
   彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。



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