めんどり聖書研究会

  めんどり通信 / 2007年8月5日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書  第二コリント人への手紙  3:16〜18
        しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
        主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
       私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄
        光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主
        の働きによるのです。

●12弟子の筆頭格といえばペテロである。 彼は漁師だった。 ペテロはイエスが「わたしにつ
いて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。(マルコ 1:17)」
と言われると、すぐに網を捨てて
従って行った。 その後も失敗と挫折(ざせつ)を繰り返しながらも主イエスに従って行った。 

ペテロが決定的とも言えるつまずきをしたのは、イエスが、弟子のユダに裏切られて逮捕され
た時であった。 イエスが捕えられ、大祭司によって裁かれていたとき、ペテロは鶏(にわとり)
が二度鳴く前に、三度イエスを知らないと言い裏切ってしまった。

ペテロはイエスが十字架にかけられる前、力をこめて「たとえ、あなたと一緒に死なねばならな
くなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。(マルコ14:27-31)」
と言った。 また、
イエスに「あなたがたは、わたしをだれと言うか。」と尋ねられたとき「あなたは、生ける神の子
キリストです。( マタイ 16:16)」
とすばらしい信仰的な答えをして、「天にいますわたしの父にこ
の事をあらわしてもらったあなたはさいわいである。」と主から言われたのであった。 とても主
を裏切ったりするとは自分自身でも思っていなかったであろう。 しかし、裏切ってしまったので
ある。

★旧約聖書    詩篇  34:18
        主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

★旧約聖書    イザヤ書  66:2
        ・・主の御告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにお
       ののく者だ。

●しかし、ペテロは鶏が鳴いた後「外に出て、激しく泣いた。(ルカ 22:62)」  このとき彼は我
に帰って深く悔い改めをすると共に、主がすでに自分の弱さを見つめておられたことを知って、
激しく泣いたのである。

ペテロはもともとすぐ世間の目が気になり、権威ある者を恐れ、弱い者であるのに自分の確信
や思い込みで衝動的に行動するなど我々と同じごく当り前の人間であった。 彼は心の奥底
にある本当の自分の弱さや卑怯(ひきょう)さ醜(みにく)さに気づいていなかった。 

主イエスのお供をした3年間、何度も何度も失敗をしたり、主から叱責(しっせき)を受ける度
に、本当は臆病者なのに肉の強さ我の強さにより、主を差し置いて自己主張していた心が、
砕かれていき、多くのことを学んでいった。 そしてイエスが十字架につけられるときに至り、
裏切ることとなった。  3年という時間が短かったのだろうか? そうともいえない。 

神は全能である。 人を一瞬にして変えることなどたやすいことであろう。 しかし、そこにはペ
テロの生き様により、後々の我々に対する教えのためという神のあわれみのご計画があった
ように思われる。 その後ペテロは復活したイエスに裏切ったことを赦され、主が復活してから
50日後、聖霊が力をもってペテロたちの上にくだった。 ペテロは逆(さか)さ十字架にかけられ
るまで、主によって訓練を受け、砕かれ学びを受けた。 

聖霊の働きなしには、イエスをキリストとして告白することも信仰を全うすることも陰険な心が砕
かれることもできないのである。 人間的にはイエスがキリスト(救い主)ということを理解するの
は、不可能である。 

★旧約聖書    エレミヤ書     17:9,10
       人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
       わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によっ
      て報いる。

●人はアダムとエバ以来、罪人となり下がり、神の栄光を受けられず、心が陰険で自分の努力
や修行では直らない者となり、神が良しとされる正しい考え、思い、判断、決定ができなくなった
ばかりか、自分の心はひとりよがりとなり、ましてや心の奥底で考え、思っている自分を知ること
ができなくなってしまった。 人は案外、いざという時には、その人の心の奥底にある思いや考
えで行動するものであることはペテロを見れば、よくわかる。

自分の(肉の)強さは自分を救うことはできず、自我は時には自分を裏切る。 むしろ、どうする
こともできない心の奥底にある弱さ、たよりなさ、無力さを本当に知って、自分をすべて主イエ
スの愛にゆだねるならば、神の恵みを体験する。 ”本当に知る”ということは聖霊の働きなし
には知ることができない。 罪も自分の心の奥底も本当に知ることができるのは聖霊によらな
ければならない。 だから 我々は日々 聖霊が我々のうちで働いてくださるよう、心を絶えず
主イエス・キリストに向けて、祈り求めていく必要がある。

裏切り者のペテロをイエスは受け入れて下さったように、今日も主は、悔い改める者を愛して、
受け入れてくださる。 失敗と挫折を繰り返していたとしても心から悔い改める者に、また心に
神のことばを受け入れ従おうとする心根がある者に、救いと助けの手を差し伸べられる。 恵
みによって、受け入れてくださる。 我々はただ心を開いて、主イエス・キリストに自分をゆだ
ね、日々祈っていきたいものである。 

聖霊によって心の奥底の自分を知らされたときには、神の前にへりくだって栄光から栄光へと
変えられていきたいものである。 何の教育も訓練も受けていない貧しい一人の漁師ペテロ
は、さかさ磔(はりつけ)にされ、殉教の死を遂げることができるまでに変えられた。 主は、神
の御前にへりくだって主に従おうと志す者も 変えてくださり、いずれ時が来たらゴールであ
る天の御国に確実にはいれるよう聖霊によって導いてくださるであろう。
 
★新約聖書  第一コリント人への手紙  1:26 〜1:28
       兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権
      力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
       しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をは
      ずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
       また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、
      有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。



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