めんどり通信 / 2007年7月29日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 ローマ人への手紙 13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あな たがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころより も、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。 ★新約聖書 マルコ による福音書 13:35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く ころか、明け方か、わからないからです。 ●旧約聖書のレビ記 11:3節に「動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れて いるもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。 (レビ記 11:3 )」とある。 ひづめが分 かれるとは、汚れから出るために、この世と分離せよということである。 もちろんこの世を実 際出て行くというのではないし、この世の人たち(まだ主を受け入れていない人たち)と交際す るなということではない。 世に深入りしないようにすべきである(口語訳Tコリント 7:31 )と言 われている。 この世の有様は過ぎ去るから、一緒に裁かれないために深入りするなというこ とである。 ★新約聖書 第一コリント人への手紙 15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利 を与えてくださいました。 ●しかし、世との分離と言ってもなかなか難しいものである。 かつて、エジプトで奴隷にされ苦 しんでいたイスラエル人が神に救いを叫び、モーセに導かれて出エジプトして喜んでいたが、エ ジプト人たちが追いかけてくると、恐怖に陥り、主に信頼せず、エジプトに帰ると言い出した。 また旅の途中、荒野で食べ物がなくなると、あれほど苦しんで脱出したくて泣き叫んでいたエジ プトの生活を恋しがったり、水がないと言っては、相変わらず神に求めず、信頼せずにつぶや いたりの繰り返しだった。 おかしなものでエジプトで苦しい、苦しいとさんざん叫んでいたにもかかわらず、そして出エジプ トするときに、様々な神の不思議や御わざを見たり、モーセの起こした奇跡で割れた紅海の底 を安全に歩いて渡った奇跡を体験したとしても、いざとなった時には、エジプトで浸透していた 世、罪が影響して神から離れようとする。 自我の強さに関係があるようだ。 聖書では割礼 (かつれい:肉が切り取られること)の重要性が記されている(ローマ2:29)が、自我が砕かれ 肉(生まれつきの性質)が切り取られるということは本当に重要なことと思える。 この時、彼ら イスラエル人の中で、主に信頼し続けた者はほんのわずかであった。 人は最初から失敗していた。 アダムとエバのときに「決して善悪を知る木の実を食べてはなら ない、死ぬから。」とたった一つの神の戒めを守れず、その時に罪が人類に入ってきた。 この 時の善悪を知る木の実は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの欲を試すものであり、これらは世に あるものを代表している。 結局、人は罪人のゆえに世の誘惑に弱いということである。 人祖アダムとエバは失敗したが、イエス様は荒野で”肉の欲、目の欲、暮らし向きの欲”の試み を受けられ、見事に勝利してくださった。 それは主イエス・キリストを信じ、主に従い、求める 者に主の勝利を与えてくださるためであった。 だから、たとえ世の誘惑が強かろうが、影響が 強かろうが、主を信頼して、主によりすがり求める者は、世の影響から守られ、世の浸透を防 いでくださる。 もうすでに浸透している者は、求めるならば取り除いてくださる。 きよめて下 さる。 昨今、教会やクリスチャンの中に”世が強い””世の浸透が強い”と感じる。 本来、キリスト教 会は世との間に分離があった。 違いがあった。 だから、ある意味、敷居が高く、違和感を感 じ、なかなか教会へ行くということが特別なことのように感じられる人が多かったのかもしれな い。 しかし、聖書に書かれていることと反して、キリスト教会と世の区分、違いをなくしようと企(たく ら)む輩(やから)がアメリカで力を帯びてきている。 教会の中に世が浸透してきている。 故 意に世を浸透させようとする働きが、やはりアメリカのキリスト教会を中心として強いようであ る。それはいずれ全世界へとひろがっていくであろう。 いやすでに広がり始めている。 エキュメニカル運動(世界教会一致運動)の働きが盛んだが、これは明らかに教会をこの世化 しようとする働きである。 神は世を裁くといわれる。 この世の君(口語訳 ヨハネ福 14:3 0)、この世の神が悪魔(サタン)であるから、世はサタンの性質、罪が浸透、蔓延している。 それは、極みにまで達しているように思われる。 かつて、ノアの時もこの地上は、神が人を造られたことを悔やまれるほど罪の極みに達してい た。 現代はノアの時よりも更に罪が深くなって、にっちもさっちもいかないくらいになっている。 しかし、今こそ、神のすばらしい恵みを受けれるときでもある。 だからこそ、我々は、自ら進ん で神に近づいて、真剣に主イエス・キリストを求めていきたいものである。 そして、クリスチャンになればどんな状態でも何をしても天の御国へ行けるとか教会へ行ってい るなら大丈夫とか教会やクリスチャンは裁かれることがないなどという惑わしの教えにだまされ ず、むしろ聖霊の助けにより惑わしを見破り、神のみことばを行い、日々祈り求めて、永遠の 命を獲得したいものである。 ★旧約聖書 詩篇 96:13 確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさ ばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。 ★新約聖書 第一ヨハネの手紙 2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえま す。 |