めんどり通信/2007年7月8日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書  使途行伝 4:12
        この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私
       たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

●「イエス・キリスト以外に救いはない。」ということばは、ほんの数十年前まで、どこの教会へ
行っても語られていた。 また、そのことを強調していた。 だから、その信仰によって日本でも
過去に多くのクリスチャンが殉教(じゅんきょう)している。

1549年ザビエルが鹿児島に来て布教が始まると、その後多くのキリシタン大名が集団改宗を
し、キリストを信じる人々が増えた。 豊臣秀吉の宣教師追放命令が出されるも、信徒数は増
加の一途だった。 江戸幕府になって「キリシタン禁教令」が発布されてから多くの殉教者が出
た。 1635年江戸幕府により寺請制度が出され、国民総仏教制度(檀家制度)が出された。

1873年(明治6年)に「キリシタン禁教令」は撤廃(てっぱい)されたものの、クリスチャンはこの
日本という国において相当ひどい扱いを受けてきた。 しかし真のクリスチャンたちの心には
「イエス・キリスト以外に救いはない。」のこの一言が刻み込まれていたゆえに信仰に堅く立って
いた。

ところが昨今、教会の様子が違ってきたようである。 「イエス・キリスト以外に救いはない。」よ
り「しるしや不思議」を強調する教会が増えてきた。 「しるしや不思議」のことなど十数年前か
ら言われてきたことで、それまで教会では強調されていなかった。 聖書が強調していることに
忠実だったのである。 しかし、昨今、「イエス・キリスト以外に救いはない。」ということばはアメ
リカのキリスト教会では言いづらくなってきたという。 いずれ日本でもそうなるであろう。

「イエス・キリスト以外に救いはない。」を強調すると”聖書原理主義者”であると言われたり、
”カルト”と言われるようである。【カルトについて:社会との軋轢(あつれき:仲がわるくなって、
争いあうこと。)を起こす宗教を本来の宗教と区別する意味で、「カルト」という。】

”聖書原理主義者”というのは、聖書のことば、教えに忠実であるということなのだが、昨今は
聖書より世にあわせたり世のものを取り入れている教理、教えがもてはやされているようだ。

★新約聖書 ローマ人への手紙 3:4
   絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であ
       るとすべきです。

●教会やクリスチャンは世にあわすのではなく、聖書のみことばを忠実に伝えていくべきであ
る。 人の関心をかおうと聖書のことばを削ったり付け加えたりすべきではない。 また、聖書
のことばを人のいいように解釈すべきではない。

「イエス・キリスト以外に救いはない。」この事実を真に信じ、忠実に伝えていくことを神はクリス
チャンに望まれている。 確かにみことばの押し付けはできないが、真実のことばに水増しして
薄めるような伝え方はすべきでない。

今の時代は神が我々を試されているように思われる。 「不法の人の到来は、サタンの働きに
よるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対す
るあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入
れなかったからです。  それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれま
す。(Uテサロニケ2:9 ~11 ) 」
と新約聖書に書かれている。

聞いた真実の神のことばを受け入れるか受け入れないかは、聞いた者一人ひとりの責任であ
る。 聞いた者が神に問われるのは、信じたか信じなかったかである。 伝える者、クリスチャ
ンに神が問われるのは、忠実にみことばを受け取っているかどうか、忠実にみことばを語って
いるかどうかである。

神のことば通り、主イエス・キリストを真に受け入れて、主に従っていきたいものである。 今週
も聖霊の導きにより、主に祈って主のみ心にかなう者としていただきたいものである。 

★新約聖書     ヨハネの黙示録  22:18 ,19
       私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者
      があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
       また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてある
      いのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。