めんどり通信/2007年6月17日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 第一テモテの手紙 4:5 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。 ●旧約聖書の歴史書を読むとき、歴史的事実というだけでなく、旧約のイスラエルの実際の歩 みを通して、新約のクリスチャン、教会がどう歩むべきか、どのような道を進むべきかなどとい うことを捉(とら)えていくことが大切である。 また歴史書以外でも、やはりそれらのことばを通 して、神が今の我々に語っておられることを捉(とら)えていくことが大切と思われる。 なぜなら聖書は、主が言われたように”たとえ”というかたちで書かれ、たとえを解いていくこと は、神がいわんとされる真理、奥義、御心を知っていくことであるからだ。 ★新約聖書 マルコによる福音書 4:33 ,34 イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。 たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべての ことを解き明かされた。 ●民数記13章に、モーセが主の命によって神がイスラエル人に与えようとしているカナンの地 を探らせたことが記されている。 ここで見るにカナンの地は穏やかには入っていけなかった。 そこには力強い民がおり、彼らと戦ってもとても勝てそうにはないと遣わされた12部族の族長 のうち10人までがおじけづいた。 その中でカレブとヨシュアだけは「神が共におられるのだから必ずそこを占領できるから上って いこう。」と言った。 しかし10人の族長たちに扇動されたイスラエル人たちは、神が立てたモー セに対し「我々を殺す気か。」とつぶやき叫び出し戦いに行くことを拒(こば)んだ。 人は、大なり小なり(悪)霊の影響を受けている。 それはクリスチャンでも同じである。 その 人の生まれつきの肉(性質)に悪霊が加担し、働いて、怒りがおさまらないとか、人のことを批 評することをやめれなかったりとか、陰口、悪口がやめれなかったり、いつまでも根に持ったり ・・・などということがある。 悪しき霊の影響を受けていれば、神の基準の正しい判断ができず、罪を犯し続け、また惑わし にも気づかずすぐに乗ってしまう。 だからクリスチャンとして歩むなら、霊的な戦いが必要とな ってくる。 そしてその戦いに勝たなければカナンの地、すなわちカナンの地でたとえられてい る天の御国(天国)へ入っていけないということをこの箇所で、神は我々に教えようとされてい る。 偵察(ていさつ)に行った12人はモーセに言われた通りいろいろ調べてきた。 カナンの地の 実ったぶどうは大きく、1ふさついた枝でも二人でかついで帰らなければならないほどであった。 実ったざくろやいちじくも取って帰った。 ★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:19 〜23 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔 術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類 のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておき ます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このよ うなものを禁ずる律法はありません。 ●実を結んだ果実ということで、神は我々に敵を倒すならば御霊(みたま)の実を結ぶ、つまり 天の御国に入れることを教えておられる。 ★新約聖書 ルカによる福音書 9:23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨 て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 ●御霊の実を結ぶため、敵を倒す(霊的な戦い)というとき、自分の肉を切り取っていく必要が ある。 肉を切り取るとは、自分を捨てるということ、自分の思いや考え、好き嫌いを優先せ ず、神のことばを優先するということである。 自分の思いや考え、好き嫌いを優先することは 神の御心とはかけ離れた道へと進んでしまう。 自分の思いや考え、好き嫌いなど、すなわち それらが肉であるとわかったならば神に頼ればいい。 カレブとヨシュアみたいに神に頼る姿勢 を持てばよい。 すなわち これは祈りに通じる。 霊の戦いに勝つためには、悪霊が利用し、働く土台となる肉(生まれつきの性質)が、変えられ ることである。 変えられるためには、ひとえに神に祈ることである。 祈って祈って主に頼るこ とである。 祈って々、みことばを行い、主に従っていき、そうして御霊の実を結ぶのである。 10人の族長たちは相手は強いから、無理だからダメだと自分の考え、思いを優先した。 しか し神にとって不可能なことはない。 そして主によりすがる者を神は見捨てない。 カナンの地 は乳と蜜の流れる地である。 すなわち神の祝福、恵みに満ち溢(あふ)れたところである。 も はや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもなく、涙もないところである。(黙示録 21:4) 絶えず聖霊 によって祈っていき、いずれ寿命がきたならば、ゴールである天の御国に入りたいものである。 ★新約聖書 コロサイ人への手紙 4:2 目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい ★旧約聖書 詩篇 37:28 まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、 悪者どもの子孫は断ち切られる。 |