めんどり通信/2007年6月10日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 マタイによる福音書 18:2 ,3 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まこと に、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、 決して天の御国には、はいれません。 ★新約聖書 マタイによる福音書 23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ 者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようと したことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。 ●イエス様にさわっていただこうとして、人々が幼子たちを、みもとに連れて来たが、イエス様 が教えを語っておられたので弟子たちはそれを見てしかった。(マルコ10:13〜16、ルカ18:15 〜17) しかし、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて「あなたがたも悔い 改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」と言われた。 主イエスは、絶えず人々をあわれみ、病をいやし、悪霊を追い出し、命のみことばを与えられ た。 病がいやされ、死人が生き返らされ、悪霊が追い出され、パンを食べることができたとき には、人々は主イエスの存在を喜んだ。 自分たちの必要を満たしてくれるときには主に従っ て行った。 しかし、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め。(ヨハネ福 6:56)」と主ご自身を 受け入れて、主に従ってくることを言われたときには主から離れて行った。 その人にとっての 必要と主の御心とは違っていたのである。 必ずしも人の必要にすべて応えてくれたからといって、その人にとって幸せとはいえないもので ある。 案外人は、自分のことをわかっていないし、自分のことを知っているようで知らない者で あると思われる。 また、自分が今後進むべき道が安全か危険かも、人にはわからないこと が多い。 聖書に「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。 (箴言 16:25 ) 」と書かれているとおりである。 我々人のことを神の方がご存知である。 だから神がひとりひとりに必要なものを与えたいと思 われ、ひとりひとりに必要な道へと導きたいと願っておられる。 人が進むべき道について様々 なことについて、神に求めてくることを神は待っておられる。 イエスから命のことばや教えを聞いた大ぜいの群衆やパリサイ人、律法学者たちは、幼子に、 ひなになりきれず、真の親鳥(めんどり)に敵対する大人の鳥(めんどり)となってしまった。 だ から彼らは、やがて「イエスを十字架につけよ。」と叫び実行したのである。 自分の基準で自 分で判断した結果、救い主を殺してしまった。 確かに群集は、律法学者や祭司長たちの扇動 (せんどう)に乗ってしまったのだが、それでもやはり最後は自分で判断したことになろう。 そ の行動の責任は自分にあるのである。 ★旧約聖書 伝道の書 7:29(新共同訳) ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な 考え方をしたがる、ということ。 ●神に対して素直に単純になれたなら何と楽なことか。 神は本来、人を素直な者に造られて いたはずだったが、どうも善悪を知る木の実を食べた結果、目が開かれ神のように賢くなって しまったようだ。 しかし”神のように”というとき、やはり、そこには神に対する敵対意識があ り、神になりかわろうとしたサタンの高慢さが含まれているようである。 幼子、ひなのように、 ただ無条件に素直に神に従う姿は見られなくなった。 やはり神が「決して食べてはならない。きっと死ぬから。」と言われた善悪を知る木の実は、神 に対して敵対、対抗する「サタンの賢さ」の実だったようだ。 「きっと死ぬ。」 それは神に対す る素直さ従順さが死んだのではないだろうか。 それはまた、たとえとして言われている幼子で はなく、大人の姿である。 しかし、キリストを救い主と信じ、キリストに従いたいという祈りを心から奉げるならば、神は生 かしてくださる。 主イエス・キリストを真に救い主として神として信じたならば、ひながめんどり の後をついて行くように、幼子が親について行くように、真のめんどりであり親である主イエス・ キリストについて行けるであろう。 もしついて行く力がなければ、主に祈ればよい。 主は、主に従う心とついて行く力を与えてくだ さる。 めんどりが、親が「これは毒があるから食べてはならない。これこれは成長のために食 べなさい。」と言ったならば素直に聞けるようになりたいものだ。 ★旧約聖書 詩篇 147:2 主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。 ●2千年前、主イエス・キリストがこの地上に来られたとき、めんどりがひなを集めるように、ご 自分の民を集めようとなさったが、当時の神の民は、集められるのを拒み、主に敵対し主を十 字架につけた。 2千年経った現代、今、主は真のキリストのからだなる教会をご自分で建て、 ご自身の真の民、クリスチャンをご自分の翼の下に集めようとされている。 その選びは、どう も開始されているようである。 今後、主は詩篇 147:2の御ことばを成就(じょうじゅ)されるで あろう。 主にとって不可能なことはない。 神は何でもできる。 神が「だれが死ぬのも喜ばないから だ。(滅びるということ。地獄へ行くということ)」と仰せられるから、神に対して素直になること、 従順になることを祈り求めていきたいものである。 そして、幼子の生き方、ひなの生き方をし て天の御国に確実に入りたいものである。 ★旧約聖書 エゼキエル書 18:32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。・・神である主の御告げ。・・だから、悔い改 めて、生きよ。 ★新約聖書 第一ペテロ の手紙 2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それに よって成長し、救いを得るためです。 |