めんどり通信/2007年5月13日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★旧約聖書 エレミヤ書 7:23 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あ なたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするた めに、わたしが命じるすべての道を歩め。』 ★旧約聖書 箴言 8:32 子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。 ●旧約聖書のTサムエル記に祭司エリとイスラエルの初代王サウルについての記事があ る。 出エジプトの時、エリの先祖であるアロンに永続的に祭司の地位を与えるという約束が 与えられていた。 しかし、エリは主よりも神に従わなかった自分の息子のほうを大事にしてし まい、エリ家は祭司職から絶たれてしまった。 このことは、はるか後ソロモン王のとき、エリ の子孫である祭司エビヤタルが罷免(ひめん)され、ツァドクが祭司となったことで成就した。 (T列王記2:27、35) エリの家系についての神の約束が撤回(てっかい)された。 また、イスラエルの初代王サウルは、最初は謙遜(けんそん)だったが、だんだん傲慢(ごうま ん)になり、神のことばに従わなくなった。 祭司だけに許されていた犠牲を自分でささげたり、 神のことばに従わなかったり。 それらを預言者サムエルに指摘されると、言い訳したり、自分 の面目を保つため、口先だけの悔い改めをして、自我を押し通したりした。 また主に尋ねず、 霊媒(れいばい)によって伺いを立てるという罪をも犯していた。 神のことばに従うより、自分の思い、考え、感情を優先し、預言者サムエルを通して語られた神 のことばに対して恐れを持たず、軽くあしらった。 当然、神はサウルに対する神の選び、召し の撤回(てっかい)をされた。 サウルは祭司エリ同様、悲惨な死を遂(と)げることとなった。 (Tサムエル記 13:8〜14節、15:3〜30節) ★新約聖書 ローマ人への手紙 11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。 人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。 ●イエス・キリストは我々の罪のために十字架にかかってくださり、3日目によみがえられた。 神は人に対して約束の御ことば「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠 のいのちを持ちます。(ヨハネ福 6:47 )」「・・・もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの 心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるから です。(ローマ 10:9)」などを与えてくださった。 だからキリスト教会では、キリストを信じたら救われる、天の御国に入れる、と教えてきた。 確 かにそうである。 しかし聖書が語っている、主を信じるということは、主のことばに従い続ける 、 主のみことばを行うということである。 キリストを信じたんだから何をやっても大丈夫、神は 愛だから裁くことなどされない、天の御国は保障されているなどという教えが今日、キリスト教 会で蔓延(まんえん)しているようであるが、聖書はそのようには語っていない。 主のことばに従い続けるためには、祈りがどうしても不可欠である。 人は自分の力や能力だ けで、聖書のことば、主のことばを行うことなどできるものではない。 聖霊の助けがどうしても 必要なのである。 だから、主イエスは十字架につけられる前、弟子たちに「聖霊があなたがたの上に臨まれると き、あなたがたは力を受ける。だからエルサレムで待て。(使徒 1:8)」といわれた。 聖霊は 我々のすべてのことにおいて助けてくださる助け主なのである。 クリスチャンになったといって も、この聖霊を悲しませては神が我々のために働こう、みわざを現そうとされても働けないし、 みわざを現すことができないのである。 みことば通り「神の賜物と召命とは変わることがない。」 しかし、主イエス・キリストを信じた者 がキリストにとどまっていなければ「枝のように投げ捨てられて、枯れ、火に投げ込まれ、燃え てしまう」のである。 それは、旧約聖書の祭司エリやサウル王と同じように、神が、やもうえず神の選び、召しの撤 回(てっかい)をされるということであろう。 神は契約の神であられる。 この契約について 「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがた はすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 (出エジプト 19:5)」と語られている。 主イエスも新しい契約ということばで語っておられる。 神の賜物と召命とは変わりなくても、応答する側によっては、神の選びや召しの撤回(てっか い)があるということである。 このことは、厳粛(げんしゅく)なことである。 人はクリスチャンで あっても、罪を犯す可能性が多い。 完全な人などいない。 だからこそ、主に祈り求め、頼り、 尋ねることが大切なのである。 日々、主イエス・キリストに尋ね、真剣に祈り、神のみことばに従おう、行おうとする者はたと え、失敗しても神が益にかえてくださる。(ローマ 8:28) 主に従い、神のみことばを行う者が、 この地上での成功者、勝利者となる。 この成功はこの世の成功とは違う。 永遠の命がか かっているのである。 下記のみことばを厳粛(げんしゅく)に受け取っておきたいものである。 ★新約聖書 マタイによる福音書 7:21、ルカによる福音書 6:46 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におら れるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 ( マタイ7:21) なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。 |