めんどり通信/2007年4月29日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★旧約聖書   詩篇    51:17
        神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさ
       げすまれません。

★新約聖書  第一ヨハネの手紙    1:9
        もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦
         し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

ルカによる福音書18章に祈るために宮に上ったパリサイ人と取税人のことが記されてい
る。 二人は同時に宮に上り祈った。 パリサイ人は正々堂々自信をもって神に祈り、このパリ
サイ人とは対照的に取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけることができないでいた。

パリサイ人とは、当時のユダヤ教最大のグループの人たちだった。 彼らは厳格な律法主義
者で形式、伝統を厳守し、聖書の知識を持ち、当時の人々から、尊敬され、今日でいう成功し
た人たちだった。 ここでパリサイ人が言っていること、『神よ。私はほかの人々のようにゆする
者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私
は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。(ルカ
 18:11,12 )』
は、事実と思われる。 そのとおり行っていたと思われる。

確かに、このパリサイ人は神の律法を守っていただろう。 しかも自分で努力して、自分の力で
精一杯がんばって守っていただろうと思われる。 人々から尊敬されるのもわかるというもので
ある。

★旧約聖書   詩篇    7:10,11
        私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。神は正しい審判者・・・。

★旧約聖書 第一サムエル記  16:7
         しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはす
        でにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主
         は心を見る」。

●反対に取税人は、ローマ皇帝に仕え、税金を同胞の民から多く取り立てたり、横領するとい
った、罪を犯していた者が多く、人々からも嫌われていた。 ここの取税人も実際、罪を犯し、
人々にも嫌われていたかもしれない。 

しかし、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら「神様、罪人
のわたしをおゆるしください。(ルカ 18:13口語訳)」
と祈った。 彼は自分が本当に汚れている
ということを知っていた。 だから「私の罪を・・」ではなく、「罪人のわたしを・・」と、神にあわれ
みとゆるしを求めて祈ったのである。

主イエス様はこのふたりの今までの行いではなく、自分の汚れ、弱さを見つめて、心底、神に
悔い改めているその心を見ておられた。 このとき、取税人にとっては、まわりの人からの評価
は視野に入っていない。 人ではなく、ただ神に注目して、神との関係で祈っていた。 それで
主はこう言われた。 

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ル
カ 18:14 )」

●大切なことは、我々が正しいか正しくないかの判断は神にあるということである。 また ”救
い”は神のものであるから、救うか、救わないかも神の判断によるということである。 神に
認められることが重要なのである。 神は自分の弱さ、愚かさ、乏しさ、力のなさ、罪深さを認
めて主イエス・キリスト様のもとにくる人を救ってくださり、祝福してくださる。 

我々も人ではなく、神に注目して、ここの取税人のように、神の前にへりくだって主イエス・キリ
ストを真に受け入れて、神の祝福と救いをいただき続けたいものである。 神の最大の祝福、
救いは永遠のいのちである。 神に義、よしとされることは、永遠のいのちを獲得できるかでき
ないか、つまり天の御国に入れるか入れないかという、永遠に関わることなのである。

たえず ここの取税人の立場でいることができるよう、主によりすがって生きたいものである。

★新約聖書  ローマ人への手紙    3:24
        ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるの
       です。

★新約聖書    マルコ による福音書   4:9
        そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」