めんどり通信/2007年4月8日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:4 <口語訳聖書> わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝が ぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あな たがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 ●イエスはご自分のことを、「わたしはまことのぶどうの木である」と言われる。 父なる神は農 夫であると言われる。 そしてイエスを信じる者たちに「わたしにつながれ(=とどまれ)」と言わ れる。 枝はぶどうの木から水分や栄養をもらい続けて実を結ぶ。 同じように我々も実を結ぼうとする なら、イエスにつながることでイエスの言葉をもらい続けることで生き、実を結ぶことができる。 そしてイエスにつながって結んだ実は父なる神が喜ばれるといわれる。(ヨハネ福15:8) この原理からすると権力、名声、お金持ち、能力などに頼ったり、自慢したり、そういうものを多 く持つことで安心したりすることは、イエスの木につながることから離してしまうことになる。 ど んな立派な枝であっても、もし木から離れたならば、たちまち枯れてしまうのだ。 また人はともすれば、つながって絶えずもらうことより、一度に溜め込んで安心したいという面 があるかもしれない。 しかし、枝は一生生きていけるだけの水や栄養を一度に溜め込むこと はできない。 それと同じように、実は絶えず木から水や栄養をもらい続けてはじめて時が来れ ば結ぶことができるものなのだ。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中か らよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 ●キリストにつながるとは、まずキリストを信じるということである。 キリストが自分の罪のため に十字架にかかって死なれ、3日目によみがえられて今も生きておられることを信じ、悔い改め ることがキリスト・イエスを信じるということである。 そうすれば、我々のすべての罪はゆるさ れ、我々は救われる。 この罪からの救いをいただくことが、キリストにつながる第一歩であ る。 ただ実を結ぶためにはキリストにつながっていることが必要なのである。 それもつながり続け ていく必要がある。 我々はキリストから離れては、神の喜ばれる実を自分では結ぶことができ ないからだ。 この世である程度成功できても、神に喜ばれる実は結べない。 神の喜ばれる 実を結んだものが天の御国へと入ることができる。 永遠のいのちを獲得する、また保持する ことができるのである。 ★旧約聖書 伝道者の書 7:29 ・・・神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。<新改訳聖書> ・・・神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる。<新共同訳聖書> ●「イエス・キリストにつながる」。 それは絶えず主の御名を呼び求め、絶えず主に心を向けて 祈り、神のことばである聖書を読むこと。 主が言われたように互いに交わること。(「互いに愛 し合いなさい。」ヨハネ福 13:34 ) 難しいことであろうか? 「わたしはまことのぶどうの木である。」「わたしにつながっていなさい。」 本来は簡単なこと であるはずなのだが、どうも我々の方がそれにいろいろ理屈をつけたり、言い訳したり、独自 の考えを付け加えたりして複雑にしているのかもしれない。 せっかくの我々の人生、生き生きと生きるためには、まことの命の源、ぶどうの木であるイエ ス・キリストにつながって、正しく神のみことばを聞き、神の命と恵みと祝福をいただきたいも のである。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:5,6 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の 中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたが たは何もすることができないからです。 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。 人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。 |