めんどり通信/2007年3月25日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★旧約聖書 詩篇 139:1~4 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られま す。 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。 ★旧約聖書 詩篇 19:12,13 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお 赦しください。 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。・・・ ●民数記22章に預言者バラムの話が書かれている。 預言者バラムが当時のモアブの王バラ クからイスラエルの民をのろってくれとの依頼を受けた。 王はバラムの下へ使者を送るが、最 初の依頼をバラムは神に尋ねて断った。 ところが二度目の使者は大ぜいの、しかも位の高 いつかさ達であるうえ、多くの銀や金を提供すると申し出た。 バラムは口では「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても・・(民数記22:18)」と 言ったが、心は「銀や金の満ちたバラクの家」にひかれていた。 それは一度、神は「一緒に 行ってはならない。」と語られているにも関わらず、「主が私に何かほかのことをお告げになる かどうか確かめましょう。(民数記22:19)」という彼の言葉でわかる。 本音の表れである。 それから、使者と共に預言者バラムは王の待つモアブへと向かうが道中、剣を持った主の使 いが現れロバに乗る預言者バラムの行く道をふさいだ。 ろばはそれを避けるため、バラムの 命を救うために、その道の端によった。 ところが、剣を持った主の使いが見えないバラムは、 ろばを打った。 バラムは「ろばが自分のいうことを聞かず、足を押し付けた」という見える現象 しか見えなかった。 そのまま進んでいたら殺されていたのに、この後、ろばがものを言っても、「おまえが私をばか にしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」 と言う始末であ る。 そのとき主がバラムの目のおおいを除かれたので、事の重要性にようやく気づき、モアブ へと進み、王バラクの前でイスラエルの民を呪う代わりに、イスラエルの民を三度祝福したとい う話である。 ★旧約聖書 エレミヤ書 12:3 主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。 ★旧約聖書 箴言 4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 ●さて、本当に人の心というものはやっかいなものである。 人は目に見える外側を見るが、神 は心を見られる。 バラムの場合、主は彼を試(ため)された。 その中で彼は自分の本心をさ らけ出したが、その本心、本音に対して悔いることもせず、結局、心が神に対して神のことばに 対して忠実でなかった。 表面上は「イスラエルの民をのろってはいけない、祝福せよ。」との神の言葉に従ったようであ るが、神は人の本音、本心を重要視される。 案外、多くのクリスチャンが自分は神の御心に 従っていると思い込んでいて、実はそれは表面上だけだったということがあり得る。 吟味が必 要であろう。 新約聖書のヘブル人への手紙にも書かれているが、主はそのしもべを試される。 その人の 本心、本音を知るためである。 その人の真の心を見極(きわ)められるためである。 神は真 に神のことばに忠実な者を欲しておられる。 「(善悪を知る木から)決して食べてはならない、きっと死ぬから。」という「神のことば」より、「見 るによく食べるによく、賢くなる」ことを優先したアダムとエバはその試みに失敗した。 神のこと ばに不忠実な者であることがはっきりと浮き彫りにされた。 だから、命の木から遠ざけられた のである。 人祖アダムとエバがこのざまである。 我々も失敗する危険性は大いにある。 油 断することなく真剣に主によりすがらなければならないことを知っておきたいものだ。 さて、預言者バラムの命を救おうとしたろばの働き、間違った道を進ませまいと立ちふさがった 主の使いの行動。 すべて主の計らいである。 主は我々が神の思いと離れ、まっすぐでない 道を歩んでいるとき、たち塞(ふさ)がれるということがあり得る。 このことは神のあわれみで あると思われるのだが、人はともすれば、そのようには受け取らず、反対に文句を言う可能性 がある。 自分の命を助けてもらったろばを打つような、いわば盲目で愚かな預言者バラムと 同じような者の可能性があるということを知っておくべきだろう。 ろばがものを言う。 このろばが”聖霊”のたとえとするなら、これは「人間の声」を通してものを 言う、つまり主の御心を人を通して語るということであろう。 聖書を見るならば 特に神が立て た器(牧者や預言者など)を通して語ることが多いようである。もちろんクリスチャンだけとは限 らない。 未信者を通しても語ることもあるようだ。 また、出来事を通して語られることもある。 「人の言葉」は右から左へと聞き流さず、主に祈って尋ねてみるべきことも多いようである。 もし、我々の願いや、望まない方向へ主が進まれたとしてもそれは我々にとって最善の道で あるゆえに、我々はその道、方向を選んでいきたいものだ。 ともかくも我々は日々、自分 の心を主に吟味していただき、純粋な心をもって主に祈り求めていきたいものである。 ★新約聖書 マタイによる福音書 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天にお られるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 |