めんどり通信/2007年3月11日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★旧約聖書   エレミヤ書   17:5,7
       主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわ
       れよ。  主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。

★新約聖書 ローマ人への手紙   10:11
       聖書はこう言っています。「彼(キリスト)に信頼する者は、失望させられることがない。」

ルカによる福音書8章に長血の女の話が書かれている。 この女は12年間も長血をわずら
い、自分の持ち物をみな売って多くの医者にかかったが直るどころかますます悪くなる一方で
あった。 女はイエスの噂を聞き、群集がひしめきあって押している中、うしろから近寄って、イ
エスの着物のふさにさわると、イエスから力が出て行き女はたちどころにいやされたという話で
ある。

この長血については旧約聖書のレビ記15章に記されている。 長血とは長い日数にわたって
出血を伴う婦人病のことである。この病自体が深刻な罪というわけではない。 これは人の罪
をはっきり理解するための型であり、方法である。 

長血、”長い日数にわたって血の漏出がある場合..汚れる(レビ記15:25)”とは、人の内側か
ら出てくる霊的な汚れ(罪)が人(本人)を汚し、悩まし、また周りの人も汚れ、悩ますということ
を言っている。 神が教えようとしているこの内側から出てくる罪に関してはマルコ7:21~23
ラテヤ5:19~21
に書かれている。

★新約聖書  マルコ による福音書   7:21~23
   内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦
        淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみ
        な、内側から出て、人を汚すのです。」

★新約聖書  ガラテヤ 人への手紙   5:19~21
       肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔
       術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類
       のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておき
       ます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

●日々の生活の中で言葉に出さなくても思いの中で人を批判したりねたんだり怒ったりそしっ
たり・・・は誰もが経験していることではないだろうか。 自分の内側からのそういう汚れに嫌気
がさし、悩み、もう解放されたい、いやされたいと思い人間的な努力をしてはみるが、それでも
また内側からひっきりなしに出てくる”悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲等・・・”。 長
血の女はこれらの汚れに悩まされている我々の姿である。

このときイエスにさわったのは、長血の女だけではなかった。 イエスの周りには群集がひしめ
きあい満員電車のような状態だったのである。 人から見て”さわる”というのと神から見て”さ
わる”というのは違う。 神が”さわった”といわれるときは、神の力が流れ出て来るのである。

”さわる”つまり主に触れていくとき我々人は救われ、いやされ、解放されていく。 ”さわる””触
れる”とは祈ることである。 信仰をキリストに対して持ち、心から真剣に祈り求めていくなら、内
側の霊的な問題は必ずいやされる。 内側から出てくる霊的な汚れ(罪)に悩まなくてすむので
ある。 主に触れ続ける人は変わっていく。 つまり祈り続ける人は祈りの中で聖霊に触れら
れ、聖霊がその人の内側にしみこんでいくのである。

★旧約聖書   エレミヤ書  17:9,10
       人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
       わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によっ
       て報いる。

●ただ、人という者は割と勘違いしやすい者であると思われる。 このときの群集のように外側
だけなのに”さわっている”と勘違いして、実は内側が”さわっていない”ということがある。 主
を十字架につけたパリサイ人や律法学者たちは、自分たちは神に従っている、神のみこころを
行っていると思い込んでいた。  思い込みや勘違いは恐ろしい。 これが永遠の命に係わる
ことであるならなお更だ。 祈っていると言っても祈りが聞かれていないならば祈っているとは言
えない。 (確かに祈っていることが神が聞いてくださるには神の時があるが)祈りが聞かれると
いうのはキリストから力が出ていったということである。 神から力が出て行くには、どのような
心で祈っているかが問われる。

日々の生活の中で、人の内側から出てくる様々な思いは、案外、素通りしている。 しかし、気
づかないまま神に対する罪を増し加えて罪の升目(ますめ)を満たしている危険性がどのような
人にもある。  だからこそ人の心を探り、思いを知っていてくださる主に絶えず、思いを点検し
ていただくべく求めていきたいものである。 

主の御ことばを読み、聞いたときも自分の知恵で受け取るのではなく、真剣に心から主を信頼
して悟らせてくださるように祈り求めていきたいものだ。 また何事についても真剣に心から主
を信頼して祈り求めていきたいものだ。 そして、これがキリストが我々の内に力が出ていくよう
に”さわる”ということである。 日々、たゆみなく祈り求めていきたいものである。

★新約聖書  コロサイ人への手紙  4:2
    目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。