めんどり通信/2007年3月4日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 ルカによる福音書 12:6 ,7 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れ られてはいません。 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありませ ん。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。 ★新約聖書 マタイによる福音書 10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがた の父のお許しなしには地に落ちることはありません。 ●イエスが道を歩いておられたとき、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは、彼が生ま れつき盲人なのは、彼か彼の両親が罪を犯したからでしょうかとイエスに質問した。 イエスは 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためで す。(ヨハネ福 9:3 )」と答えられた。 我々人は、生まれつきにしても生まれた後のことにしても、不幸と見える事実や出来事がある と原因は何かと探ろうとする。 確かに原因を知っておかなければならないときもると思われ る。 次回から同じようなことが起こらないためにも不注意、怠慢、聞き間違い、間違った思い 込み、判断力の低下、性格からなど、原因を知って次回は回避できるように備えることも必要 であろう。 しかし、たった1羽の小さい雀(すずめ)さえ、地に落ちることは神の采配(さいはい:さしず、指 揮)なしにはできないと主は言われる。 我々を取り巻く様々な出来事は、神の采配によって起 きている。 クリスチャンにとって偶然はない。 いや本来この世に偶然はないのかもしれない。 なぜ様々な出来事が起きるのか、なぜ生まれつき盲人がいるのか。(一般的に不幸と見られて いる事柄の例として) その答えは「神のわざが人に現われるため」である。 人生の中で神のわざを多く見る者、体験する者は幸いである。 神のわざを体験しようとすれ ば、主によりすがり祈り求めるであろう。 努力は美徳のように言われる。 確かにそうである。 しかし、聖書がいう”努力する”とは、自分の無力さを知って、”神に祈り求める”努力のことを 言っている。 神は真剣に祈り求めて来る者に必ず応えてくださる方である。 神には人に対する神の全般的 計画がある。 それを神の経綸(けいりん)という。 神のご計画は聖書の中に詳細に書かれて いる。 その中で、神は何よりも人が救われることを望んでくださっておられる。 人を再生(キ リストを信じて再び生まれること)させ、永遠の御国へと導きたいと望んでくださっておられる。 ★旧約聖書 伝道者の書 3:1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 ●神は真剣に主に祈り求める者たちを神のもとに集めようとされている。 時が来ればご自分 の民をご自分のところに返そうとされるであろう。 小さな雀の一羽でも、神の御前には忘れら れていない。 なおさらご自分の民には心を向けておられる。 主は、ご自分の民を心配してく ださっているのである。(詩篇 55:22) 主は「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる。(マタイ 18:20)」と仰せられる。 わたしの名(イエス・キリスト)において集まるところが教会である。 教会は建物ではない。 兄弟姉妹が和合しているその真ん中にキリストは住まわれ頭(かしら) となられる。 エペソ人の手紙5章に「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたり は一心同体となる。」 はキリストと教会とをさして言っているとある。 そして再生した者はキリ ストのからだの部分であると言っている。 我々の身のまわりに起きる様々な事柄の中に神の采配がある。 それらの中には、神が こ の奥義といわれる神の教会の中に、神のもとに、立ち返らせようとする神の御心が込められて いる。 神は真の神の恵み、祝福、永遠の命を与えるために返そうとしておられることを知って おきたいものである。 神のもとに立ち返ってきているという者も、絶えず主から目を離さないようにして、いよいよ神の 祝福を増し加えていただき、永遠の命を獲得するために、日々祈り求めて主に従っていきたい ものである。 ★新約聖書 マタイによる福音書 16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教 会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 ★旧約聖書 ミカ書 2:12 ヤコブよ。わたしはあなたをことごとく必ず集める。わたしはイスラエルの残りの者を必ず 集める。わたしは彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集め る。 |