めんどり通信/2007年2月25日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★旧約聖書 イザヤ書 43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあな たの罪を思い出さない。 ★新約聖書 マタイによる福音書 18:21,22 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何 度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言 います。 ●マタイ福音書18章にイエスが語られたたとえがある。 ある家来が王に1万タラント(約6000 億円)の借金をしていた。しかし彼は返済できなかったので王に必死に猶予を求めて嘆願した。 1万タラントものお金は猶予してもらっても、彼にはとても払える金額ではなかった。 それで王 は家来を「あわれに思って」、借金を帳消しにした。 ところが、そんなあわれみを受けて天文学 的な借金を帳消しにしてもらったこの家来は、仲間に貸した100デナリ(約100万円)を容赦しな かった。 彼はひれ伏して必死に頼む仲間をゆるさず、牢に入れてしまった。 結局、そのこと が王に知れて、家来はせっかく帳消しにしてもらっていた借金が彼の元に返ってきて、自分自 身が牢に入れられるはめになった、というたとえである。 ★新約聖書 マタイによる福音書 6:9~6:13 だから、こう祈りなさい。 『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあな たのものだからです。アーメン。〕 ●このたとえ話からわかることは、人間に、そんなつもりはなくても神から見られると、人は神 の前に天文学的莫大な借金(罪)があるということである。 またこのたとえ話にも、また上記 の主の祈りにもあるように、他人をゆるさないと、ゆるされていたはずの借金は全部その人に 戻ってくるということである。 このことは恐れなければならない。 ゆるすこととゆるされること はワンセットであるということを我々ははっきりと知っておく必要があるように思われる。 ★新約聖書 第一ヨハネの手紙 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦 し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 ●そのような人間の天文学的莫大な借金(罪、咎)を神は、イエス・キリスト様を信じた者に、 イエス様の十字架のゆえにすべてゆるしてくださるのである。 日々の生活の中でも我々はゆるす、ゆるされるという状況になることがあるかもしれない。 自 分の負い目をゆるされたときには、ああ、よかったと思うが、相手の負い目を赦すことはなかな か難しいものであろう。 しかしゆるすということは案外自分を解放することでもある。 相手に 安心を与え自由を与えることであるが、自分を自由にすることでもあるのではないだろうか。 いくら怒り、仕返しをしたいと思っても時間が経つと怒りが徐々におさまってきて、当初、経験し た強い感情はどこかに消えてしまい、ゆるしてもいいと思えるようになってくる人が多いのでは ないだろうか。 しかし、時間の流れだけに任せたり、「あの人をゆるしてやった。」と貸しを作 ったという高ぶった思いがあるとしたら、それは本当のゆるしと言えない。 しかし、案外このことは気づきにくいことかもしれない。 だから、ゆるした後、また何か不都合 や問題が起こったとき、あの時ゆるしてやったのに、ともう終わった問題が再び浮上してくるこ とが多いのかもしれない。 だから主は七度を七十倍するまでと言われたのであろう。 キリス トの助けなしには、なかなか本当の”ゆるす、ゆるされる”ということは難しいものである。 ★新約聖書 ヘブル人への手紙 8:12 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないから である。」 ●ネットでこんな文章を見つけた。 『「許す」というのは、「与えるために」という意味だという。 「許す」は英語で「forgive」。確かに「与えるため」だ。「人を許すことは、自分自身と相手に対 して進んで与えること」だと言っている。・・・「忘れる」とは「獲得するために」という意味なんだ そうです。「忘れる」は英語で「forget」。なるほど確かに「獲得するために」だ。 「忘れること の価値はなんでしょう?」「ずばりひとことー獲得すること、受け取ることが易しくなる点です。」 「受け取るために、許しましょう。手に入れるために、忘れましょう。 与えるためには、許し、 忘れることです。」』 さて、「人をゆるさない」ということは「人を憎んでいる」とも言える。 それは聖書によると罪で ある。 神は我々人が自分の罪を悔い改めるならば、その罪を思い出さないと言ってくださる。 我々人には本当のゆるす力を持っていないと言えるかもしれない。 ゆるすという行為は、ゆる すことができる力があるからするのではない。 ゆるす決心、愛する決心をすることが重要であ る。 神に相手をゆるすこと、愛することを選びとるという意志を表わし、ゆるすことができるよ うに祈り求めることである。 そうしたとき我々人は、人を本当にゆるし、また我々も神にゆるさ れるであろう。 そのときには、時間の経過に関係なく、左右されずに相手のしたことを忘れる ことができるであろう。 神は我々の心の奥底を見ておられる。 うわべだけのきれいごとで済 まさないで、心の奥底を主に教えていただいて、きよくされたいものである。 相手を理解するとは 赦す(ゆるす)こと。 赦すとは赦されること。 赦されるとは 救われること である。 救われて前に進むことが重要なのである。 日々祈り求めていきたいものである。 ★新約聖書 ピリピ 人への手紙 3:13 ,14 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励ん でいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心 に走っているのです。 |