めんどり通信/2007年2月4日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 ヨハネの黙示録 21:27 しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。 小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。 ★新約聖書 コロサイ人への手紙 2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。 ●イエス・キリストは私たちを責め立てている債務証書、罪をご自分の身に引き受けられ(コロ サイ 2:14)、十字架に釘づけにされ死んでくださった。 そして3日目によみがえられて今も生き ておられ、すべての人が救われて、真理を知るようにと働いてくださっておられる。 我々クリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰によって救われた。 クリスチャンの目標は永 遠の命を獲得することである。 天の御国へ確実に入ることである。 クリスチャンになるという ことはゴールへ向かってのスタートをきったということである。 スタートしてからの道をどう歩んだらいいかは聖書の中にたとえとしてではあるが詳細に書かれ ている。 クリスチャンが陥りやすいワナや警告、惑わしなども書かれている。 しかし、聖書は 自分勝手に解釈してはならない、私的解釈をしてはならないとあるように、聖霊の導きと悟りが なければ理解できないようになっている。 日本語聖書も翻訳したものであるし、昨今の聖書は大いに改ざんという怪しい面があるような ので、聖書の著者である神の意図を真に理解するには原語を調べるのが無難のようである。 「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない(Uペテロ 1:20)」という箇所でも、自 分勝手に解釈してはいけないんだ、ということではなく、そのテキストだけで預言を解釈しては いけない、他の箇所も参照せよ、ということである。 このこと一つでも理解していないとクリスチャン生活を歩むにおいて行き先が違ってくる。 キリ スト教会の中にはあまりにも多くの偽りの教えが入り込んでいる。 多くのクリスチャンたちは 神の権威を持つ教会の牧師や教師が言っているから大丈夫、と吟味せずにうのみにしてい る。 確かに権威に逆らってはいけない。 しかし 神のことばをどう理解するかで私たちの歩 みを決定するゆえに、正しく受け取らなければ行き先を間違えてしまう危険性がある。 だから どんなメッセンジャーでも教えでも、また本でも必ず主にあって吟味することが重要なのであ る。 ★旧約聖書 詩篇 94:12 主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、そ の人は。 ●あるクリスチャンがクリスチャンになって長い間、教会の牧師に教えてもらったことは吟味な どしたことがなかったという。 牧師が言われることはイエス・キリストが言っていることだと最初 に教えられていたから疑いもせず、理解できなかったことや疑問に思う思いや考えは、出てくる クリスチャンに問題ありとなっていたようだ。 当人もそう思っていたようだ。 しかしそのクリス チャンが教会を出てから(実際は、あまりにもどうしようもない者で牧師泣かせで役にも立たな かったので追い出されたようだ)、真理が見え出したという。 不思議なものである。 教会を出てからクリスチャンが見なくてはならないものが見えてきたと いうのだ。 そのクリスチャンは「自分の存在そのものが罪だ」ということを示されて悔い改め、 自分はどうであれ、ほめたたえられるべきお方は主イエス・キリストであると絶えず祈り、愚か な自分でも神は自分が滅びることは御心ではない、と主に導いてくださるように祈りに祈ったと いう。 そうすると主が祈りを通して、聖書で主がいわんとされている真理を教えてくださったと いう。 クリスチャンいわく。 「主は確かに生きておられる。 みことばはそのとおりである。 救いも悟 りも主にあり、純粋に主に従っていこうとする者にはみことばを開いてくださり、天の御国という ゴールに導いてくださる。」と。 聖書には今後、ますます大きな惑わしが来るゆえ、キリスト教会は、クリスチャンは背教に向 かっていくと記されている。 そして裁きに入っていくと。 だから世的になる教会や偽教理を受 け入れている惑わされた教会からは出なければならないと。 出エジプトせよ、と記されてい る。 どうも追い出されたそのクリスチャンにとっては、追い出されたことは益になったようだ。 ただ主のあわれみと愛のゆえである。 聖霊の第三の波、キャサリンクールマン、ピーターワグナー、ベニーヒン、ビルハモン、「朝の9 時」のデニス・ベネットの「異言を伴う聖霊のバプテスマ」から始まるカリスマ運動、2段階携挙 説(空中再臨、地上再臨)、イスラエルに第三神殿が建てられる、マタイ 24:40のひとりは取ら れ、ひとりは残されるの取られる者が携挙される者ということ、千年王国がある、ヤベツの祈 り、エキュメニカル運動、完全なきよめの教えなどの偽教理はすっかり多くの教会に定着してい るようであるが、これらの教えは永遠の命から離れさす要因となりうる危険なものである。 「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれ(マタイ7:14)」「肉体を殺し ても魂を殺し得ない者を恐れるな」(ヨハネ12:24,25) こういうみことばを真剣に読んでいかなければならない。 クリスチャンになったから永遠の命 が自動的にくだるのではない。 天の御国に間違いなく入れるのではない。 教会は信者を集 めるために耳障りのいい話しをするのではなく、真実を伝えていかねばならない。 確かに主の十字架は人類にとって、すばらしい福音である。 すべては主イエス・キリストを救 い主として受け入れることから始まる。 しかし、我々クリスチャンは下記のみことばをしかと 悟っておかなければならない。 目標達成のため主に祈り求めていきたいものである。 ★新約聖書 マタイ による福音書 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天にお られるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 ★旧約聖書 詩篇 33:18 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。 |