めんどり通信/2007年1月28日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ルカによる福音書  9:24
       自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者
      は、それを救うのです。

第二サムエル記23章や歴代誌上11章に、ダビデの三勇士について書かれている。 当時、
ペリシテの軍隊は、ダビデが生まれたベツレヘムを占領していた。 ダビデはアドラムの洞穴で
敵の動向を伺っていた。 そのときダビデは「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ま
せてくれたらなあ。」と羊飼いの頃に飲んだ井戸の水のことを言った。 

するとそれを聞いた三人の勇士は敵陣を突き抜け、その井戸から水を汲んでダビデのところ
に持って来た。 ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて言った。 「主
よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませ
んか。(Uサムエル 23:17)」
と。  

ダビデは、三勇士がダビデの願いをかなえるために、命令されたわけでもないのに、自分の命
を顧みず、自分の命よりもっとダビデを愛したので、その水は、まさに彼らの血に値するものと
評して、それを主の御前に注いで飲まなかったのである。 そして、ダビデもその勇士たちをい
のちのように惜しんだという話しである。

★新約聖書  第一ヨハネの手紙    3:16
        キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私た
       ちに愛がわかったのです。

★旧約聖書  第一サムエル記 16:7
    「・・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

●ダビデと三勇士の話しは、旧約時代に実際あったことというだけでなく、たとえとしての意味
合いがある。 ダビデは主イエス・キリスト、三勇士はクリスチャンを表す。 主キリストのため
に自分のいのちをかける者は神もその人をいのちのように惜しまれる、慈しまれるというので
ある。 

聖書の中には勇士たちの信仰による武勇伝(ぶゆうでん)が多く書かれている。 この信仰を
主は喜ばれる。 神の国のために、主のために信仰を純粋に純潔に守る人はイエスの勇士で
ある。 純粋に純潔にという限り、何でもかんでも神として礼拝したり頼ったりせず、また聖書に
書かれてもいないような教え(偽教理)を有名な牧師が語っているからとか、多くのキリスト教会
が受け入れているから間違いないなどと安易に受け入れず、堅く聖書に記されている神が言
わんとされていることからはずれず、聖霊に導かれているクリスチャンのことをキリストの勇士
という。

イエスの弟子ペテロの場合、 「あなたのためにはいのちも捨てます。(ヨハネ福 13:37)」とイ
エスに言ったその直後、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたユダヤ人たちが、
イエスを捕らえに来たとき、他の弟子たちとイエスを見捨てて逃げてしまった。 しかし、主は
その時の弟子の信仰ではそのようになることはご存知だった。 また、ペテロの「あなたのた
めにはいのちも捨てます」ということばも本気であることもご存知だった。 主は前もって「見な
さい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。い
や、すでに来ています。(ヨハネ福  16:32)」
と言われていた。 

その後の弟子たちが様々な体験をして目が開かれ、成長していくのもご存知だった。 主
は何もかも知っておられたのである。 主は我々の心の深いところ、その人の本音を見ておら
れる。 人に力があるとかないとか能力があるとかないとか頭がいいとか悪いとかは関係な
い。 ペテロは様々な失敗をしながらも、時には致命的と思われるような失態をしても、主に従
い続けたい、主に喜ばれたいという心でもって、みことばを行い、主に従い続けていた。

イエスをキリスト(救い主)と信じ、信じ続けていた。 ユダヤ人たちに捕らえられたイエスのこと
を3回知らないと言った大失態どころか、主を裏切るようなことをしでかしたときも、主はペテロ
の心を見ておられた。 それで主はペテロの信仰がなくならないようにと祈ってくださっておら
れたのだ。(ルカ 22:32) 

ここまでのペテロはあの三勇士と正反対のようであるが、しかしその後、主を真に知り、主に
従い続けたペテロの心は聖霊に導かれて水を得た魚のような生き方をした。そしてペテロの最
後はキリストのために逆さ十字架につけられて殉教したという。 三勇士と同じように主キリスト
のために自分のいのちをかけたので、主もペテロを愛し続けられ天の御国へと導かれたので
ある。 ペテロもキリストの勇士である。 

キリストの勇士の条件は、信仰にあるが、その前に、主に従い続けたい、主に喜ばれたいとい
う心があるかどうかが鍵のようである。 主がどんな方か知ったからそのような心が持てるの
かもしれない。 それで主の願望を知って主のために自分の命をかけられるのかもしれない。

我々ももっと主イエス・キリストを知り、神の恵みと祝福を体得して、この地上生活を聖霊に導
かれて水を得た魚のような生き方をするだけでなく、確実に天の御国へ導かれたいものであ
る。 そのためますます主に祈り求めていきたいものである。

★新約聖書  第一テモテの手紙  6:19
        また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上
       げるように。

★旧約聖書  箴言 19:23
       主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。