めんどり通信/2007年1月21日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 第一ペテロの手紙 5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのよう に、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 ●創世記19章にソドムの滅亡について書かれている。 当時、ソドムとゴモラの町はきわめて 重い罪の町となっていた。 神はそれらの町を滅ぼそうと二人の御使いを遣わされた。 そのこ とはアブラハムに知らされたが、アブラハムは滅ぼされないようにと、とりなしをした。 ただとり なしにも限界があり「滅ぼすまい。その十人のために。」と主が仰せられたとき、アブラハムはと りなしを止めた。(創世記 18:24~ 32) それから二人の御使いはアブラハムの甥ロトの家に泊まった。 すると、ソドムの町の男たち が押し掛けて来て、なぶりものにしてやると連行を強要してきた。 ロトは戸口にいる彼らのとこ ろに出て、うしろの戸をしめて応対しようとした。 彼らはロトのからだを激しく押し付け、戸を破 ろうと近づいて来た。 しかし、神の御使いの威力で、危機を逃れることができ、翌朝、二人の 御使いの先導で、ロトと妻、娘をソドムの町から退避させた。 町にはたった十人の正しい者さ えいなかったのである。 神が「後ろを振り返るな。山へ逃げよ。さもないと滅びることになる。」と仰せられたのでロトたち は、小さな町(ツォアル)に逃げ、山の方へ向かってさらに逃げ続けたので、難を逃れた。 しか し、ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。 ソドムとゴモラの町には硫黄の火が降り注ぎ滅ぼされた。 それはまるで原爆でも落とされたか のような光景だった。 アブラハムの信仰により、アブラハムの甥のロトを救ったというのがソド ムの滅亡物語である。 ★旧約聖書 イザヤ書 26:20~21 さあ、わが民よ。あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんの しばらく、身を隠せ。 見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はそ の上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。 ●ノアの箱舟のときは、ノアたちが舟に乗り込んだとき、主が”戸を閉ざされた”(創世記 7:1 6)。 そして戸の外にいた地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に 至るまで滅ぼされた。(創世記 7:23) ”戸”というのは外と内との境目、境界線となる。 この戸をあけるべきか閉めるべきかというこ とは良く考えるべきことと思われる。 吟味(ぎんみ)をする必要があると思われる。 ロトのとき は、戸は閉められるべきであった。 戸を閉めておかなくてはならないときがある。 閉めなけ ればならないときに、閉めようとして、たとえそのとき強い邪魔(じゃま)や妨げがあったとして も、 ロトのときに戸を破って入ってこようとした悪者どもから御使いが守ってくれたように、必ず キリストが守ってくださる。 ★新約聖書 第二テモテの手紙 4:3~ 4:4 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言っても らうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な 好みにまかせて教師たちを寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような 時代になるからです。 ●今はキリスト教会も変わってきた。 悪い意味で変質してきた。 それはどうも教会やクリス チャンが吟味をしないで、良さそうだと思われるもの、世で評判が良いものなど何でもかんでも 聖書に照らし合わせることなく受け入れているところに問題がある。 そうして聖書の信仰から ずれてきている。 神がいわんとされていることから遠く離れてきてい るようである。 クリスチャンであるならば基本であるところの聖書に照らし合わせ、主に祈り尋 ねて聖霊の導きを得るべきである。 有名な器が言っているからとか、受け入れている者の数 が多いからとか、良さそうな感じがするからとか・・・そんな愚かな理由で安易に受け入れるべ きではない。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 16:17 兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつま ずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。 ●聖書をよく読んでいくと、惑わしの教えで多くの者が永遠の命を失う危険性があると教えてい る箇所が多くあり、終末が近づいてくると、ますます多く出てくることが、聖書のあちらこちらで 警告されている。 事実、昨今惑わしの教理が次々と出てきている。 聖霊の第3の波といわれる運動、「王国は今」、「統治主義」、ニューエイジ、「艱難前に教会が 挙げられる」という「艱難前携挙説」、フェミニスト神学、エコロジー神学、同性愛養護神学、顕 現された息子、チャーチスクール、ホームスクール(この教育が再建主義者主導の下で行われ ており、再建主義者はユダヤ人が多い)、「教会回復」の教理、ヨエルの軍隊、全世界の教会 統一の教理(エキュメニカル運動)、しるしと不思議、癒しの教理、「教会のユダヤ性の回復」の 教理・・・。 このように教会は吟味せずに戸をあけたため、敵の策略にまんまと引っ掛かり、堕落の一途を 辿(たど)っている。 本来、それらの教理は戸の外で神によって滅ぼされるべきものである。 我々が戸をあけるのは、主イエス・キリストをお迎えするためであるべきだ。 やがての日、主が 来られる。 その時まで我々は主に祈り求めて正しく生きたいものである。 そして今、心の戸 を日々キリストを迎え入れるために、キリストに向かってあけておきたいものである。 ★新約聖書 ルカ による福音書 12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受け ている人たちのようでありなさい。 ★新約聖書 ヨハネの黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、 わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 |