めんどり通信/2006年10月22日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★旧約聖書 申命記 6:18
   主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主
   があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。

●キリストは約2千年前、我々人を救うためこの地上に来てくださった。 まず主はイスラエルに
来られご自分の民に神の国を伝えられた。 しかし、ご自分の民はこの方を受け入れなかっ
た。 (ヨハネ福 1:11) 

当時、ローマの行政官である総督(そうとく)ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したこ
とに気づいていた(マタイ 27:18)が、 ユダヤ人をむげにあつかい、後に面倒が起きることを嫌
い、また群衆を満足させるために、判断を群衆に任せた。 案の定、パリサイ人達や律法学
者達に扇動された群衆は、「十字架につけろ。」とイエス・キリストを十字架につけた。
  
★旧約聖書 士師記 17:6
       そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なって
      いた。

●ピシデヤのアンテオケのユダヤ人会堂で、当時、パウロがメッセージを語ると「次の安息日
には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。(使徒 13:44 )
」という具合だっ
た。 ここでもユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしったと
いう。 

主イエス・キリストの福音が語られるところでは、聞いた人々の反応が見られるが、それを聞い
て信じる人々がおり、信じないでねたみや悪意を持ち、そして妨害する者がいる。 多くの人が
主を受け入れたが、残念ながら最終的には扇動されて、主を十字架にかけたように、福音を伝
えた者に敵対していく者が多いようである。

しかし、いつも多くの人々が下した判断が、必ずしも神の前に正しいとは限らない。 民主主義
というものは、道を踏み誤る危険をはらんでいることは歴史を見れば明らかである。 あのヒト
ラーも民主的な選挙によって選ばれたという。 

神を主としないで、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行う、つまりめいめいが自分を
主とする、基準とする、あるいは他のすばらしいと思われる人であっても、その人を主とする、
基準とするということは、案外、簡単に惑わされて、悪の方向に扇動されてしまったり、マインド
コントロールされてしまうという危険性がある。 そうすると、もはや正しい判断はできなくなる。

★新約聖書 第一ヨハネの手紙 3:7
     子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあら
    れるのと同じように正しいのです。

●聖書が語っていることは、民が主ではない。 神が主であるということである。 我々は常に、
自分の目に見えるところではなく、また自分の思うところでなく、みことばは何と言っているかと
みことばに立ち戻り、主の御心を求めて祈っていきたいものである。

今後、たとえ世界がどのように民主化がすすみ、世界が一つになり世界的な民主主義による
一致の基準ができたとしても、それは扇動されたもの、洗脳されたものでしかない。  まさし
くキリストがこの地上におられた時と同じである。 神の霊、聖霊を冒涜(ぼうとく)する方向に進
んでいくだけである。 そして やがて神のさばきにあってしまうのである。 

我々は 眼を覚まして、神を主とし、基準として世の中の情勢も見極めていかなければ、せっか
く主イエス・キリストを信じて、神の恵みに預かり祝福に預かり、天の御国へ行けるという神の
約束を頂いたとしても、惑わされて真のいのち、神の永遠のいのちを受け損(そこ)なって、永
遠の御国に入れなくなってしまうのである。

どこまでも神の主導権のもとに残されたこの地上生活を歩んでいきたいものである。 そして、
確実に神の御国に入りたいものである。

★旧約聖書 詩篇 7:9
   どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神
   は、心と思いを調べられます。

★旧約聖書  エゼキエル書 33:12
   人の子よ。あなたの民の者たちに言え。正しい人の正しさも、彼がそむきの罪を犯した
      ら、それは彼を救うことはできない。悪者の悪も、彼がその悪から立ち返るとき、その悪
       は彼を倒すことはできない。正しい人でも、罪を犯すとき、彼は自分の正しさによって生き
       ることはできない。