めんどり通信/2006年10月15日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書  第一コリント人への手紙 10:7
   あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖
    書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。

★新約聖書  エペソ人への手紙 4:18
   彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神
   のいのちから遠く離れています。

●秋といえば日本各地で様々な祭りが行われている。 所によっては、何十人もの担(かつぎ)
手によって担ぎだされた太鼓台が、町内を練り歩きながらその地元の神社に集結し、太鼓の
響きと掛け声の中、力強い技を奉納する。 酒をあおって気勢を上げる太鼓台の担ぎ手を多く
見かけるという。

さて、出エジプト記にこんな祭りの光景が記されている。 イスラエル人が奴隷とされていたエジ
プトから解放され約束の地への旅に出発してから三ヶ月後、モーセはシナイ山に登り、神から
十の戒めが書かれた二枚の石の板を授かった。

ところが、モーセがなかなか山から降りて来ないので、不安に感じた人々は、モーセの兄アロン
に詰め寄り新しい礼拝用の偶像を求めた。 彼らは金の耳輪をはずして、アロンに渡し、彼は
金の子牛を造り、それを祭壇に祭った。 そしてそれに全焼のいけにえをささげ、和解のいけ
にえを供えて、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯(たわむ)れたとある。 酒をあおって
気勢を上げ祭りを楽しむ者達に似ていなくともないような気がするのだが?

神からこのことを知らされて山から降りて来たモーセはこの偶像崇拝、神を冒涜(ぼうとく)して
浮かれ騒ぐ人々を目の当たりにし、怒りを爆発させ、結局、この悪い行ないを止めない、心をか
たくなにする者たちはみな殺されたということである。

★新約聖書  第一コリント人への手紙 10:11
   これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わ
   りに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

●上記は後の我々に対する教訓であるが、人というものは、「喉元(のどもと)過ぎれば熱さを忘
れる」「赤信号みんなで渡れば怖くない」との心境になるのか、その後もイスラエル人は、偶像
礼拝へ走っては神の怒りにあい、悔い改めて神の元に立ち返り、そしてまた偶像礼拝をす
る。 また時には、偶像崇拝をしながら神をも崇拝する・・・ということの繰り返しをした。 真の
神に対する冒涜(ぼうとく)的なことを繰り返した彼らが、神の怒りにあうのは当然であった。

人は自分の力、能力、努力、修行では永遠の命を得られないのである。 忍耐を尽くして、人
が神の戒めを守って生きることを待っていて下さった神は、歴史の時々に、預言者(神のことば
を伝える者)を起こして下さったが、ユダヤ人はことごとく彼らを殺してしまった。 そして神のひ
とり子イエス・キリストを十字架につけてしまった。(1テサ 2:15) 

預言者やキリストが言うことばが気に入らなかったのである。  人というものは、自分の生き
方を指摘されたり、反対されたりしたとき、たとえ、それが神からであったとしても、自我のゆえ
に反発する者が多いと思われる。 

★新約聖書 ローマ人への手紙  2:5
   ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神
   の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

●不思議なもので永遠に関することを指摘されたら、余計、反発し、それを語る者を殺すまで
になりがちのようである。 それは、その背後にサタンが働いているからである。 聖書による
と、悪魔は自分が最後には永遠の火の池へ行くのを知っているから、サタンの目的は、人を
自分と同じ滅びへと向かわそうとすることである。 

だから、永遠に関して、死後に関してのことにおいては、どうもサタンは人に真実を知らせまい
と様々な方法を持ってきて働くことが多いと思われる。 ただ、ここで言えることは、サタンだけ
が悪者ではないということである。 その人がそれを受け入れる要素があるということだ。
人の意志はその人の任されているものである。 だから聖書には、「きょう、もし御声を聞くなら
ば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル 4:7)」
と書かれているのである。

★新約聖書 ローマ人への手紙  1:25
       それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られたものを拝み、これ
   に仕えたからです。

●人が神のいのちから離される大きな理由の中に、イスラエル人たちが「イスラエルよ。これ
があなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言い、子牛を拝んだように、真の神
を退けて、偶像を優先することがあると思われる。 別の物、子牛を持ってきて、これこそがあ
なたたちの神なのだといっている。 すなわち、本物とすりかえようと偽の神を代わりにもってき
ている。 だから、偶像崇拝、偶像礼拝と関連する問題は、すりかえ、ということである。 偶像
を神の位置に置いてしまっているのである。 

また、この偶像というとき、一般的には 金や銀、木などで作られたもの(仏壇、仏像や神棚な
ど)であったり、死人(先祖)であったり、などということであろう。 また偶像礼拝とは、一般的
には神社、寺などへ行き拝んだり、奉納にあたるような儀式や行為をしたりということであろう。 

しかし、クリスチャン(キリストに従う者)であれば、通常、そういうことはしない。 しかし、偶像
を実際にかたちにする前に、心の中に偶像を持っているかということが、出エジプト記でも問わ
れているように思える。 

人間を超えた存在や力をはっきりと感じていながら、造り主を無視して、あえてそれを別のもの
にすりかえているなら、それこそ名だけクリスチャンであって、偶像礼拝、偶像崇拝をしている
こととなる。 パウロは、「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そして、むさぼりが、そのまま偶像礼
拝である。(コロサイ3:5)」
と言っている。

聖書は、偶像礼拝をする者は、神の国を相続することがない、すなわち、天の御国に入ること
がないと言っている。(ガラテヤ 人 5:19~21) 我々は気をつけて、真の神の位置にいかなる
代わりのものをも置かないようにしていきたいものである。 そして、神の怒りにあわず、むしろ
神の恵みと祝福に預かりたいものである。

★旧約聖書  申命記 11:16
   気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝む
   ことのないように。