めんどり通信/2006年9月24日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくこと はありません。この世の光を見ているからです。」 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決して やみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 ●マタイによる福音書24章は世の終わりについて書かれている。 世の終わりには、聖書の みことばを行い、主イエス・キリストに従って生きようとする真のクリスチャンは、迫害にあった り、世から憎まれたり困難を受けることが書かれている。 世の中も教会の中も不法がはびこって、多くの人たちの愛は冷たくなるという。 実際、世でも キリスト教会でもその傾向は十分に現れてきていると思われる。 聖書は人が信じる信じないにかかわらず、認める認めないにかかわらず、神のことばであるか ら、神は必ずみことばを成就(じょうじゅ)される。 それによると、世はキリストにつまずくが、 クリスチャンもつまずくことがあるという。 主につき、御ことばにつき、世と妥協しないと世の中の人から憎まれ迫害されるので、皆にあ わせる人が多く起きると思われる。 主の方向と世の方向は正反対である。 だから、つまず くのである。 ★新約聖書 マタイによる福音書 7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか らはいって行く者が多いのです。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入り し、牧草を見つけます。 ●しかし、我々が見ておかなければならないことは、人は生きるということについて、この地上 だけで終わるのではないということである。 この体が終わった後、どこで生きるのかである。 多くの人は、この体が終われば(死ぬということ)、もう何もかも終わりという具合に考えるか、 あの世(先祖のいるところ)へ行く、墓に入る、無となる、天国へ行くなどと短絡的に考えている のではないかと思われる。 かつての著者もそうであった。 しかし、神のことば聖書には、死後、どのような人も神の前に立ち、次に行くべきところが決ま るとある。 天の御国か永遠の地獄かである。 また、体が死んだ後の霊魂の存続があること については、もう十年以上も前にNHKでも臨死体験レポートから死後の霊魂の存続が認めら れたと放送された。 我々は、後の世界(死後の世界)をどこで生きるのかということについて、ちゃんと見ておかな ければならない、考えておかなければならないのである。 なぜなら、それは今後、一人一人 にとって、実際のこととなるからである。 主に従っていく者は守られ、救われる。 世は暗闇の中にある。 暗闇の中を歩んでいるのだ から、つまずくのはある意味、当然かもしれない。 だから、つまずかないために、光なるキリス トを見て歩んで行くことが重要である。 そのために、我々は、このお方に絶えず祈り求めていき、祈りつつ聖書を読み、聖霊によって 神のみこころを悟らせていただきたいものである。 たとえ足なえ(信仰が弱くなっている状態、信仰がない状態)であっても、主に祈るならば、主は 足なえをいやしてくださり、足を強めてくださり、惑わしや困難から守ってくださるのである。 ★新約聖書 使途行伝 16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と 言った。 ★新約聖書 マタイによる福音書 21:14 宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。 ★新約聖書 第一テモテの手紙 2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 |