めんどり通信/2006年8月6日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
|
★旧約聖書 伝道者の書 5:15 母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって 得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。 ●ルカによる福音書の15章に放蕩(ほうとう)息子のたとえが書いてある。 ある人にふたりの 息子がいた。 父の生前に財産を分けてくれということで、父は分配してやった。 すると弟は 何日もしないうちに、それをもって遠い国へと旅立った。 弟は行き着いた地で、放蕩三昧をして、財産分与で受けたものは、底をついてしまった。 お 金のあるときには集まっていた友も弟に金がないとなると寄り付かなくなった。 何もかも使い 果たしたとき、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 ようやくありついた仕 事は、豚の世話をするものだった。 豚の餌で腹を満たしたいほど貧しく、落ちぶれてしまった弟。 しかし、彼は我に返った。 本心 に立ち返った。 「天(の父なる神)に対して、父に対しても罪を犯してしまいました。 もう息子 と呼ばれる資格はないかもしれませんが、雇い人のひとりにしてください。」 帰ってこう言おう と彼は決心して、家に向かって行きだした。 すると絶えず心配して待っていた父が、息子の方に走り寄って迎えてくれ、最上の着物を着せ てもらい、息子であるしるしの指輪まではめてくれて祝宴を催してくれたという話しである。 さて、このたとえでもわかるように人間、本心に立ち返ったところで物事を考えると見方が違っ てくると思われる。 この地上にいる間に多くの財をなす。 しかし、多額の金は人を狂わす危 険性もある。 また、地位、名誉を得る。 知名度をあげる。 しかし当人が亡くなった後、誉れは死人のとこ ろまでは届かない。そしてたとえ死後、後世の人々に語られたとしても、いずれ人々から忘れ 去られてしまう。 善を行なう。 すばらしいことである。 人のために何か手助けすることは決して悪いことではな い。 しかし、せっかく地上ですばらしいことをしたとしても、やはり、神と和解していなければ、 罪の処分をしていなければ、天の御国に入ることはできない。 <罪の処分とは、イエス・キリ ストが我々人の身代わりとなられて十字架で死んでくださったことにより罪がゆるされる、とい うことを受け入れ、主イエス・キリストを救い主、神として信じること) ★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている ●せっかく人の前で善を行ない、良き評判を残したとしても地獄へ行ってしまったなら何になろ う。 それこそむなしいではないか。 マザーテレサは、クリスチャンだと名のり、人々に善を施し、世の人々からも尊敬され評判は、 すこぶる良い。 しかし、彼女は知り合いの神父さんに「自分と神の間には大きな隔たりがあ る。 自分は救われていない。」などと胸の内の苦しみを手紙にしたためていた。 せっかくの 評判良い者であっても、彼女はどうも天の御国に入っているとは思われない。 また、いくら カトリックが彼女を、福者に昇格させても、神から見られたらクリスチャンとは言えない。 クリスチャンとは、キリストに従う者、キリストにある者という意味があるからだ。 キリストが、 聖霊が人を天の御国まで導いてくれるのである。 キリストは、この世では大きな成功を望めないかもしれないと言われる。 むしろ「また、わた しの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救 われます。 (マタイ 10:22)」と言われる。 ゴールにたどり着くには、主キリストを真に信じ、従っていくということが必要なのである。 主を 真に信じるなら、おのずと主に従っていくであろう。 また従っていけるように祈り求めるであろ う。 放蕩息子は本心に立ち返って神を信じたときから、神に従うことが始まり、それはまた永遠の 命を獲得すべき道を歩みだしたのである。 いわば永遠の御国に入れる準備、ことばを変え れば、死ぬ準備を始めたのである。 この地上生活など短いものである。 たかだか百年ではないか。 この短い地上生活で永遠の 行き先が決まるのである。 本心に立ち返って考えてみるべきではないか。 クリスチャンであるという者は、神から見たらどうかということを主に祈り尋ねてみることが大事 かもしれない。 案外、クリスチャンだと自他ともに認めていても 神から見たらクリスチャンとは 言えない場合が多いからである。 まだ主を信じていない者は、今、何歳であろうと、極端に言 えば、死ぬ間際であろうと、主を真に信じるなら、その時が永遠の御国へ行く準備を始める時 なのである。 準備の時間が多くあるかないかなど関係ない。 神はその人の心を見られているからである。 神を離れていること、それが放蕩息子なのである。 しかし、神は我々が帰ってくるのを待って いてくださるのだ。 我々が父の方に向き返り、一歩踏み出すだけで、父の方から迎えに来て下さる! 神の方か ら罪にまみれた息子に走り寄って下さる! 我々人の努力では、天の御国までは決してたど り着くことはできない。 しかし、主に心向けて、求める者に、神は遠くても、神の方から走り 寄って来てくださるのだ! 我々は恵みによって救われる。 しかし恵みは決してタダなのではない! 我々が支払うべ き、罪の代価をキリストが代わりに十字架上で支払われたのだ。 ここに、まことの神の愛が 現されている。 この主イエス・キリストを真に信じ、心を向けて祈り求めていきたいものである。 ★新約聖書 ヘブル人への手紙 4:7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダ ビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならな い。」と語られたのです。 |