めんどり通信/2006年6月25日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 第一コリント人への手紙 1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の 力です。 ★新約聖書 使途行伝 4:12 この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名 のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていな いからです。 ●先週のルカによる福音書16章のある金持ちと貧乏人ラザロの話しには続きがある。 死後 の金持ちとラザロの間には、大きな淵(ふち)があり、互いに行き来することができないことが わかった金持ちは、願って言った。 『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 私には兄弟が五人あります が、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』(ルカ 16:27,28 )と。 ★新約聖書 ヘブル 人への手紙 9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている ●死はすべての者にあるということは、信じる信じない、認める認めないは関係なく事実であ る。 しかし、死後のさばきもすべての者にあるということもやはり同じである。 信じる信じな い、認める認めないは関係なく事実なのである。 金持ちは、そのことを死後ハデス(苦しみの場所、地獄)に行って初めてわかったのである。 しかし、死後に気づくのでは遅いこともわかった。 だから、せめてまだ地上に生きている自 分の兄弟には、ここに来させたくないと思ったのであろう。 だが、自分の兄弟は地上で傲慢(ごうまん)で神など必要ない、神などいないという、かつての 自分と同じ生活をしているのを知っていた。 それでも何とか救ってもらいたいとの願いから、 ラザロを生き返らせて、罪を悔い改めるように、目をさますように、考えを改めるように、言い聞 かせて欲しいと願ったのであろうと思われる。 兄弟達もラザロが死んでいたことを知っていたから、死んでいたラザロが生き返って話したら、 彼らはその話しを聞き入れて、悔い改めるのではないかと考えたのかもしれない。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるの です。 ★新約聖書 第二テモテの手紙 3:15 ・・・・聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせる ことができるのです。 ★新約聖書 第一ペテロの手紙 2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみ を受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 ●しかし答えは『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』『もし モーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、 彼らは聞き入れはしない。』であった。 「モーセと預言者がいる」というのは、モーセと預言者たちによって書かれた聖書があるという ことであろう。 確かに共産国でなければ、聖書は自由にどこででも手に入れることができる。 『神のことばである聖書』だけでなく、『キリストの十字架の福音』を伝える教会やクリスチャン は、日本でもたとえ少ないとはいえ、おるのである。 クリスチャンが『キリストの十字架の福音』を伝えるときに言い方、伝え方のうまい下手はある かもしれないが、聖霊が働かれるならば、表現の仕方は問題ないと思われる。 パウロは神の ことばを伝えるのに、『私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝え ることはしませんでした。』 (Tコリント 2:1 )と言い、また『私のことばと私の宣教とは、説得力 のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。』( Tコリ ント 2:4 )と言った。 御言葉は、聖霊が働いてくださってはじめて悟れるものであり、罪も聖霊によってはじめて、真 に罪を罪と知り、真の悔い改めへと導かれ、キリストを信じるように導かれるのである。 この 聖霊の御わざによってはじめてその人が新たに生まれて心が変えられるのである。 だから、死後どちらに行くかは、聖書のみことばや人を通して語られる『キリストの十字架の福 音』に耳を傾けるか否かにかかっているといえる。 また地上で永遠に関わる決断をすること になることを、この箇所で神は我々人に迫っているように思われる。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あな たがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころより も、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。 ●「たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」とのことばどおり、 人は奇蹟を見たから信じる、というものでもないと思われる。 ある程度の奇蹟は、悪魔や悪霊 でもすることができるし、マジックもある。 だから 我々はまず心が、神の前にへりくだって、聖 霊が我々の心に働いてくださるようにと祈り求めていきたいものである。 そして一旦、主イエス・キリストを信じたならば、神に喜ばれる者となりたいものである。 そうで なければ、神は、あなたを知らないと言われる(マタイ7:21)。 だから、主によりすがる者、主 に従う者として絶えず、心を主に向けていきたいものである。 ★旧約聖書 ミカ書 6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられる のか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと ではないか。 |