めんどり通信/2006年6月18日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書  第一ペテロの手紙  1:17
   また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなた
   がたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。

ルカによる福音書16章にこんな話しが記されている。 ある金持ちと貧乏人ラザロがいた。
金持ちは、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 ラザロは全身におできができていたので、働け
ず、金持ちの家の残飯でもいいから腹を満たしたいと思うほど貧乏だった。 

★新約聖書  ヘブル 人への手紙 9:27
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている

●ある時、この二人とも死んでしまった。 貧乏人は御使いたちによりアブラハムのふところ、
つまり天の御国へ連れて行かれ、金持ちはハデスで苦しみながら目がさめた。 金持ちが苦し
みながら目を上げると、ふところに抱かれたラザロが見えた。 金持ちは思わず叫んで言っ
た。

「父アブラハムさま。(父なる神のことと思われる)私をわれんでください。ラザロが指先を水
に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまり
ません。」

しかし、答えは、おまえは生前、良い物を受け、ラザロは悪い物を受けた。 しかし、今はラザ
ロは慰められ、おまえは苦しみもだえている、ということであった。 ひと言で言うなら、生前の
生き方を思い出してみよ、ということである。 しかも、金持ちとラザロの間には、大きな淵(ふ
ち)があり、互いに行き来することができない、ということであった。 

金持ちは、単にお金があるということだけでなく、才能や賜物を持っているということをあらわ
す。 貧乏というのはお金がないというだけでなく、才能もなく賜物もない。 おまけに全身おで
き、つまり自分では何もできない弱さをあらわしていると思われる。 

どうもこの金持ちは、お金があったから苦労せず、ぜいたく三昧できたようである。 つまり、何
も神に頼らずとも、自分の力で十分、事を成しえることができたようである。 それで成功すれ
ば、当然、その栄光はその人のものである。 そこには神に栄光を返して神の前にへりくだると
いうことはしないであろう。 誉(ほま)れも賞賛もその人が受けるであろう。 しかしラザロは、
お金がないゆえに、おまけに自分で働いてお金を稼いで、自分の力で生きることさえできな
かったようで、神に頼らざるを得なかったと思われる。 

★新約聖書 マタイによる福音書 5:3
   心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

●実際、人は多かれ少なかれ、何らかの才能なり賜物を与えられている人が多いのではない
だろうか。 人の長所といわれるところがそうとも思われる。 しかし、それらを自分の力で成し
遂げるのか、それとも自分という者が罪人と知って、それらの才能や賜物さえ一旦、神にゆだ
ねて、主によってきよめられて、主によって、その才能なり賜物なりを活かすのか、いずれかで
あろう。 後者はそれで栄光や賞賛を受けたとき、その栄光、賞賛、誉れを、主にお返しするで
あろう。 

その姿こそが、地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこみ、神の御前で へりくだ
った姿である。 そのような者が神と和解したといえよう。 神と和解した者は、やがて(死後)、
神の前に立つときに、”聖く、傷なく、非難されるところのない者”と見てくださるのである。 そし
て、約束の永遠の命を頂いて、永遠の天の御国に入れるのである。 

一旦、主イエス・キリストを信じて、クリスチャンと呼ばれる者になっても、結局は絶えず、主に
よりすがっている者でなければ、神は、あなたを知らないと言われる(マタイ7:21)。 だから、
我々は、この地上におる間に、主イエス・キリストを救い主、神として真に受け入れ、神と和解し
て、神の御前にへりくだり、絶えず主に祈り求めて、約束の永遠の命にいただきたいものであ
る。 

★新約聖書  コロサイ 人への手紙 1:22
   今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和
   解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者とし
   て御前に立たせてくださるためでした。