めんどり通信/2006年6月4日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 マルコによる福音書 2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、 病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 ★旧約聖書 ヨブ記 22:29 ・・・・・神はへりくだる者を救われるからだ。 ●ルカによる福音書18章にイエスがたとえでこんな話しをされたことが記されている。 ふたり の人が、祈るために宮に上った。 ひとりはパリサイ人と呼ばれ、もうひとりは取税人だった。 パリサイ人は、当時、厳格な律法主義者で、多くは貪欲、無慈悲、偽善などで知られていたと いう。 そのためパリサイ人という言葉は、「虚偽」と同義語になったと言われている。 一方、取税人は当時のイスラエルはローマ帝国の属国であったので、ローマの手下と思われ ていた。 それで皆から嫌われており、遊女と同じ階層と思われていた。 ここで、パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆす る者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカ 18:11 ,12) ところが、取税人は遠く離れて立ち、、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言っ た。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ 18:13) イエスは言われた。 この二人のうち、神に義と認められたのは、取税人であると。 取税人は 自分がどれほど愚かな罪人であるかということをよく理解していた。 だから、神にあわれんで いただくしかない、あわれんでいただきたいとの思いが言葉に表れている。 ところがパリサイ人は、律法のことを良く知っているはずなのだが、それが表面の知識だけで あって、心が伴っていないゆえに、神の前にへりくだることができなかったと思われる。 パリサ イ人や律法学者たちや祭司たちは自分たちは正しいことをしている(神の律法を守っている)と の思い込みは、自分の罪を見えなくしていたようである。 主は、別の箇所でパリサイ人に「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。 しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ福 9:41 口語訳)と言われた。 罪を真に知った者たちが、イエスのところに来る。 当時、イエスは罪人や取税人たちとよく一 緒に食事をしておられた。 彼らは 主イエスのところに来たのである。 彼らは自分は罪人で あると、重々、理解していた。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐 と寛容とを軽んじているのですか。 ★新約聖書 第一テモテの手紙 1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、 そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 ●罪は知識的に、もしくは表面的に知るだけでは、どうも本当に知っているとは言えない様であ る。 罪は聖霊によって知ったときに、真に知ったと言える。 神は 人の表面ではなく 心を見 られている。 へりくだっている者が、聖霊によって罪を知らされると思われる。 だから、神の 前にも自然にへりくだった態度となるのであろう。 罪人と真に知ることは、とても大切なことと思われる。 神に多く用いられたパウロも自分は罪 人のかしらである、というほど真に罪を知った。 知った、というより聖霊によって知らされたか らこのような言葉になるのであろう。 真に罪を知った者が、神のご慈愛によって、真の悔い改 めへと導かれるのである。 真に罪を知った者、罪を理解した者は イエス・キリストのところに来るであろう。 そのような者 が罪を赦(ゆる)され、罪から解放されるのである。 我々も神の前に、へりくだっていきたいも のである。 ★旧約聖書 第一列王記 8:39 あなたご自身が、あなたの御住いの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください。ひ とりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知って おられます。あなただけがすべての人の子の心を知っておられるからです。 |