めんどり通信/2006年5月21日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書  第一コリント人への手紙 1:26〜28
   兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権
   力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
   しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはず
   かしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
   また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、
   有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

ルカによる福音書19章に、ザアカイという人のことが記されている。 ある日、イエスがエリ
コの町をお通りになるというので、ザアカイは、イエス様がどんな方か見ようとしたが、背が低
かったので、群衆のために見ることができなかった。 誰も嫌われ者のザアカイを前の方に行
かせることなどしなかった。 

イエスが生きた時代は、イスラエルは独立した国でなく、ローマ帝国の支配下にあった。 国民
は、ローマ帝国と自分の国と二重の税金を集められていた。 ザアカイはローマ帝国の権力を
後ろ盾に、不正を働き、みんなから嫌われていたのである。 取税人は遊女と同じ階層と思わ
れていた。

さて、そこでザアカイは ちょうどイエス様がそこを通り過ぎようとしておられたので、イエスを見
るために前方に走り出て、いちじく桑の木によじ登った。 

イエスはちょうどそこに来られた時、上を見上げて木の上のザアカイに向かって言われた。
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と…。
イエスはザアカイの名前を知っておられて、「ザアカイ!」と彼の名前を呼ばれただけでなく、
「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから!」と声をかけられた。 

ザアカイはそのお言葉に大喜びで、すぐにイエスを自分の家にお迎えした。 エリコは「祭司の
町」であったが、イエスは宿るために祭司より取税人を選ばれた。 

この感動的な出会いを見ていた周りの人たちはみな、「あの方は罪人のところに行って客とな
られた。」と言って、イエスに対してつぶやいた。 ところが、ザアカイは立って、イエスにこう言
った。 「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからで
も、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
と…。

ザアカイは変えられた。 ザアカイは、お金ではなくイエス様を愛する人に変えられた。 イエ
スは心の奥でザアカイはみなに言われるほど悪者ではない、と知っておられた。 たとえ彼が
不道徳な悪事に手を染めているとしても、イエスを一目見たいという熱心な気持ちがあり、満た
されていない彼の心を見ておられたのである。

★旧約聖書 サムエル記 第一 16:7
   しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは
   彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

●イエスは よく取税人や罪人たちといっしょに食事をされた。 その度にパリサイ人やその派
の律法学者たちから「取税人や罪人の仲間だ。」と非難された。 パリサイ人や律法学者たち
や祭司たちは自分たちは正しいことをしている(神の律法を守っている)と思い込んでいた。 

イエスの時代に起きた多くのことは終末の時代の型である。 終末にも2種類の神の民がい
る。 ”祭司長たちとパリサイ人たち、律法学者たち”に相当する人々がおり、また”取税人や遊
女たち、罪人たち”に相当する人々がいる。 前者はキリスト教会の専門的な人々であり、後者
は今まで神を信じることも知らなかった、かつては罪深い生活を送っていた人々であろうと思わ
れる。

さて、今の私たちの社会でも、わいろ、恐喝、詐欺といった金銭に関わる事件を毎日のように
耳にする。 マネーゲームのようなことが多く行なわれ、人は汗水たらして働きの収入を得ると
いうことから、マネーゲームのような収入の得方がもてはやされた。 株投資が盛んになった
が、結果気がつけば大損をして、あたふたするという有り様。 また、保険金目当ての殺人な
ども起こっている。 

お金のために、人を裏切り、だまし、殺すという罪にまみれた生き方をしている人が、多くなっ
たように感じる。 報道でも殺人事件があれば、どのチャンネルも視聴率競争で見る人々をあ
きさせない工夫がなされていると思われるが、それがまた、人々の罪に対する罪悪感をマヒさ
せることに手助けしているようにも思える。 人は何回も何回も繰り返せば慣れてくるのだろう
か。 そして、口では「怖い世の中になった。」と言いながら、殺人と聞いてもあまり驚かなくなっ
てきたようにも思える。 それが恐ろしい。

「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉もあるが、すべてがお金ではかられて、良心はどこへ
行った?!と思わされる世の中になったことには間違いない。  本当の友、本当に自分を受
け入れてくれる人、本当に自分を愛してくれる人がいない殺伐(さつばつ)とした中で、今も多
くの人が、お金のために不幸な人生を歩んでいるのではないだろうか。 

★旧約聖書 伝道者の書  5:10
   金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、む
   なしい。

●イエス・キリストは、エリコの町のザアカイの所に来て下さったように、我々の住んでいる町、
家にも来てくださるお方である。 イエスは、私たちを捜して救うために、私たちの所に足を運ん
でくださるお方である。 なぜなら、イエスは私たちを愛しておられるからである。  いのちをか
けても惜しくないという私たちへの愛を、イエス・キリストはあの十字架の上で最高に表わして下
さった。 イエスは私たちの罪のために、十字架でいのちを投げ出してくださったが、3日目に復
活されて、今も生きておられるお方である。

★新約聖書 ルカによる福音書 19:9 、10
   イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子な
   のですから。
   人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と、イエスは言われた。 人の子と
はイエスがご自分のことを指してよく使われた言葉である。 天地万物を創造されたまことの神
であるイエスは、私たちの造り主である。 そして私たち人間は、アダム以来、この造り主なる
神様に背を向けて罪の道を歩み続けている。 けれどもその造り主なる神、イエス様は、失わ
れた人を捜して救うために、肉体を持った人間となって、私たちの所に来て下さったのだ。 イ
エス様がこの世に来て下さった理由は、失われた人を捜して救うためだった。

「お金があれば何でも出来る」、「もっとお金があれば幸せになれる」。 確かに、ないよりは
あった方がいいかもしれないが、よく考えてみると、世の中にはお金で買えないものがたくさん
あるのではないだろうか。 本当の友達、本当に自分を愛してくれる人、自分のことを大切な存
在として接してくれる人、健康、平安、安眠などなど…。 そして何よりも大切である永遠のいの
ち。 

人間の存在が、この地上だけではなく、霊魂の存続が体の命が終わったあと、永遠に続くこと
は、多くの統計者、研究者たちが発表しているが、そのときに絶対必要な永遠のいのちは、こ
のお方、主イエス・キリストによらなければ与えられない。 実に本当に大切なものは、お金で
は買えないようである。 

この主イエス・キリストを真に受け入れて、主によりすがる者、主に祈り求める者、主に従って
いく者が、神が選ばれた者と言えよう。 また、そのような者は、取税人や遊女たち、罪人たち
のように、自分が真に罪人であると自覚したものであろう。 だから、主キリストのもとに行ける
のである。 私たちも、一度、主イエスを信じたから、大丈夫というのではなく、日々、神の前に
へりくだって主のもとに行き、主とともに生きたいものである。

★新約聖書 ルカによる福音書  5:31、32
   そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
   わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たので
   す。」

★旧約聖書 ヨブ記  22:29
   ・・・・神はへりくだる者を救われるからだ。