めんどり通信/2006年5月14日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 ヘブル人への手紙 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分 かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 ●聖書の基本的なことといえば、 @霊に関する書物である。 (神のことば) 神の霊感によって書かれたものである。 基本的に今の時代は、主イエスのことばは聖書 を通して来る。 ★新約聖書 第二テモテの手紙 3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益で す。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話し たことばは、霊であり、またいのちです。 A本来、クリスチャンに対して書かれている。(もちろん、未信者にも語りかけておられることが 多い。) ★新約聖書 マタイによる福音書 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたが たを休ませてあげます。 <マタイ 11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなた がたを休ませてあげよう。 口語訳> B二重構造になっている。 (表と裏がある。 表は表面的な事柄、事実があり、裏は神の奥義 とか神のみこころと言われているものである。 裏の部分は隠されている真理である。 もち ろん、聖書には隠されていない真理もある。 神は唯一である、キリストの再臨がある、とか は隠されてはいない。 ★新約聖書 マルコによる福音書 4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。 C裏の部分は、表面は”たとえ”で書かれているゆえに、神の御霊(みたま)によらなければ悟 れない。 ★新約聖書 マルコによる福音書 4:10 ,11 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これら のたとえのことを尋ねた。 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほか の人たちには、すべてがたとえで言われるのです。 D人の区分がある。 おびただしい数の人々といつも主に付き従っている少数の人々。(マル コ4:1,4:10) 弟子と群衆。 このことは我々人がどちらかになることは選ぶことができる。 ★新約聖書 マルコによる福音書 4:10 ,11 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これら のたとえのことを尋ねた。 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほか の人たちには、すべてがたとえで言われるのです。 ●ただし、キリストの弟子になりたい、それも言葉だけではなく、真の弟子になりたいと願い、心 に決め、主に告白し願う者には、必ず神の訓練、試練を受けることとなる。 それは広い道で はなく、狭い道を行くことになるからである。 しかし、この真の弟子は神の奥義を知り、神のみ こころを悟って、神のみことばをキリストによって、行なうことができるのである。 そのような者 が、神の天の御国(ゴール)にたどり着くことができるのである。 狭くて厳しい道であるが、この 道は確実に天の御国につながっているからである。 ★新約聖書 マタイによる福音書 7:13,7:14 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか らはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 ★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:5 ,6 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからであ る。」 ●確かに、神のみこころは、神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んで おられる。( 1テモテ 2:4 ) だから、すべての人が救われるために、神のところに来るようにと 招いておられる。 しかし、どうも神に選ばれていなければ、最後まで残れないと思われる。 マルコ4章などに、4つの種のたとえが記されているが、実を結んだのは良い地にまかれた1つ の種だけであった。 1つはみことばを聞いてもすぐにサタンが来て、まかれたみことばを持ち 去られてしまう。(道ばたに落ちた種) もう1つは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、 根を張らないので、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。(岩地 にまかれた種) また、もう1つは、みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、 その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結ばない。(いばらの中にま かれた種) 実を結んだのは、みことばを聞いて受け入れた者たちだった。 実を結ぶということも途中経過 はわかるかもしれないが、結局最後になってわかるものであろう。 ゴールに行き着いた者、 再臨の時に携挙(けいきょ)された者、殉教した者は神に選ばれていたことがわかる。 今、生きている間に、確かに神に選ばれたものであるかどうか、知ることはむずかしいかもしれ ないが、日々、主を信じ続け、主に祈って、主の御前にへりくだり、主のみこころを求め、主の みことばを行なっている者は、神に選ばれていると言えよう。 今の我々にできることは、聖書は神のことばであると信じ続け、神のみこころを知りたいと、聖 書を読み、キリストによって主に祈っていくことであろう。 そうすると、聖霊が我々に触れてくだ さり、キリストによってみことばを守り行なえるようになる。 そして、そのような者が、神の祝福 と恵みに預かり、神の国を受け継ぐのである。(天の御国に入るということである。) ★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがた を任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るた めであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなた がたにお与えになるためです。 ★新約聖書 マタイによる福音書 22:8,14 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たち は、それにふさわしくなかった。 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」 |