めんどり通信/2006年4月30日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
|
★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を お捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 ★新約聖書 第一テサロニケ人への手紙 5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって 救いを得るようにお定めになったからです。 ●”救い”といっても様々な意味あいがあると思われるが、聖書に記されている”救い”は一貫し て”永遠””いのち”に関わっている。 聖書は道徳の本でもなく善書でもない。 ”いのち”に関 する本である。 聖書の著者は”神”である。だから聖書のことばは、神である方の御霊(みたま)、聖霊が、”悟 り”を与えてくださらなければ真に理解できるものではない。 表面的には理解できたとしてもそ の人の実際とならねば、何の意味もない。ただの良書になってしまう。 そこには神の御力も御 わざもない。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 ●神のことばは、人を生かすものである。 なぜなら、ヨハネによる福音書1章1節に”ことばは 神であった”と記されている。 また、このみことばを信じて、聖書の中の様々な恵みのみことば を、実際に体験して(キリストを体験したという表現を使うが)、キリストを知り、主に従っている 者を、本当はクリスチャンという。 教会に所属しているから、聖書を読んでいるから、洗礼を受けているから、クリスチャンである とは言えない。 一般的にはそのような者がクリスチャンというであろうが、神は、クリスチャン とは呼ばれない。 神から見られてクリスチャンであるなら、間違いなく天の御国に入れるだろう。 しかし、残念な がら一般的にクリスチャンといわれている者が、どうも神から見られるとクリスチャンではないよ うである。 ★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:1,2 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです から、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている 競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分 の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の 右に着座されました。 ●また、一度、クリスチャンになったから、キリストの恵みに預かったから、天の御国へ行くこと は約束されているとキリスト教会の多くの教会で教えられているらしいが、これもまた、人の解 釈であって、神はそんなことを言われていない。 天の御国へ導いてくださるのは聖霊であるが、聖霊は一度、クリスチャンの中に留まったら、二 度と出て行かないとは聖書は書いていない。 むしろ、聖霊を悲しませていると、聖霊は、いつ でも去って行くと書いている。 だから 神から見られたクリスチャンであったとは、最後になっ てわかるのかもしれない。 ゴールを目指して走ることをパウロは勧めている。 ゴールにたど り着くまで、イエスから目を離してはいけないと書いている。イエスから目を離せば、聖霊は去っ ていくし、ゴールにたどり着けないからである。 ★新約聖書 マタイによる福音書 7:21〜23 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におら れるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名に よって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん 行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不 法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 ●上記のみことばのように主は言われる。 ここに記されている人たちは、明らかに人から見 たら、すばらしいクリスチャンであろうと思われる。 主イエス・キリストの名によって、悪霊を追 い出したり、預言をしたり、奇蹟を行なったりしているようであるから、当然、人からはすばらし いクリスチャンといわれている可能性がある。 しかし、主は その人々を知らない、と言われて いる。 神から見られてクリスチャンであるなら、当然、主はその人を よくご存知であるはずだ。 クリ スチャンということばは、キリストに従う者という意味があるから、主に従っている者を神は知ら ないなどとは言われないだろう。 やはり、クリスチャンと呼ばれる基準が神と人では違うようで ある。 聖書の中に確かに、預言、悪霊の追い出し、奇蹟について書かれているが、それらが第一で はない。 神は、”救い”に焦点をあわしておられるように見受けられる。 神が言われる”救 い”は永遠に関わっているからである。 だから聖書は、この地上で人は旅人として過ごし、死 (永遠)への準備をするようにと、あちらこちらに記されている。 ★新約聖書 ヨハネの黙示録 20:12,15 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。 そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのち の書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分 の行ないに応じてさばかれた。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の 池に投げ込まれた。 ★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 ●神に会う備えをするのは、本来すべての者がなさねばならないことである。 誰も彼も皆、一 度は神の前に立たねばならない日が来るからである。 その時に、ひとりひとりのすべてが神 の前にあからさまに明らかになるのである。 人間であるなら誰も彼も、一度(体が)死ぬこと と一度さばきを受けることは定まっていると神が言われるのである。 ここには賛成、反対、反 抗、反論、拒否は通用しないのである。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:1〜3 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言ってお いたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに 迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。 ●だから、聖書は”永遠のいのち”を人々に与えさせるための道しるべとして我々人に与えられ ているのだが、人の解釈では神の真の奥義を悟れないように書かれている。 聖霊によっての み悟れるのである。 聖霊により悟り、聖霊により導かれた者たちが、クリスチャンであり、ゴー ルにたどり着くであろう。 何のためにクリスチャンになるのか。 それは、ゴール、天の御国へ 入るためである。 世から偉人と言われたとしても天の御国へ入っていないと思われるマザー テレサのようであっては、クリスチャンとは言えない。 真に主のみこころを求めていく者たちに、主はすばらしい天の御国で場所を用意してくださって いるのである。 ゴールまでの道は主が定めて下さっているゆえに、主イエス・キリストの十字 架を見上げて、主に祈り求めていきながら、聖霊に導いていただきたいものである。 ★新約聖書 使途行伝 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私た ちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 ★新約聖書 第一コリント人への手紙 1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の 力です。 |