めんどり通信/2006年3月12日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
|
★新約聖書 ローマ人への手紙 1:16 、17
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべて
の人にとって、救いを得させる神の力です。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ま
せるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
●あるキリスト者がこのように言っている。
「かの浄土宗ごときは、弥陀の赦免(しゃめん)の慈悲(じひ)を高調する点において、すこぶる
キリスト教に類似せる宗教である。 ・・・さりながら、われらがもし、この他力宗の与えし見方を
もってキリスト教に対するならば、そは大いなる過誤である。 弥陀宗の根底は”慈悲”である
が、福音の根底は”義”である。 前者は 徹頭徹尾(てっとうてつび)、慈悲の上に立ちて慈悲
を通徹せしむる宗教であるが、後者は あくまで”義”の上に立ちて慈悲を築成する宗教であ
る。」
キリスト教の神は、”愛”の神ということはよく聞く。 しかし、このキリスト者が言うように、慈悲(
=愛)だけではない。 根底には”義”がある。
神は愛なる神だから、罪人をゆるしたい。 しかし、義なる神だから、罰せねばならない。 神
は、愛の神であると同時に、義の神でもある。 神の「愛」も神の「義」も、神から人に与えられ
るものであり、現わしてくださるものであり、もうすでに現わしてくださったものである。
この神の愛と神の義の両方を共に行なうために、神は「神のひとり子」を世に遣わしてくださっ
た。 主イエス・キリストは「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。 し
かし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と私たちのため(身代わり)に
罰を受けてくださったのである。
主イエス・キリストを信じる(受け入れる)者は、キリストにあって罪をゆるされ、キリストにあって
義とせられ、キリストにあって復活させられ、キリストと共に生きる者としてくださったのである。
ただ、信仰によって、この愛を実感することができ、信仰によって義と認められるのである。(ロ
ーマ 3:30)
★新約聖書 ローマ人への手紙 3:23
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
★新約聖書 ローマ人への手紙 6:20
罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:22
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。
また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:28
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪
を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
●「神の愛」と「神の義」を分けて、「神の愛」だけを強調しているところには危険性がある。 神
の愛と神の義は共存している。 だから、神の愛が言われるところには、神の義が共にあるこ
とをふまえていなければならない。
神の愛と神の義を分けてしまっているから、ご利益的信仰になったり、神の訓練や試練がきた
時に、「神は愛であるはずなのに・・」とつぶやきながら主から離れてしまうと思われる。 また、
神の愛を強調していると、「この地上で救われなくても、死後、主を受け入れて救われたらい
い」というセカンドチャンスなどと呼ぶ偽りや、「地獄など実際にはない、人の心の中にある」な
どという惑わしの教えに巻き込まれてしまう。
”義”が曖昧(あいまい)になると、罪に対して鈍くなり、清められることについてあまくなってしま
う。 心がルンルンと楽しく、喜ぶようなことだけを追い求めるようになってしまう。 罪や肉の性
質(生まれながらの性質で、変えられなければならない性質)をみて、堪(た)えがたき苦痛を心
に感じることなど避けようとする。 だから、簡単に惑わしの教理にはまってしまうのである。
★新約聖書 第一ヨハネの手紙 4:9、10
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいま
した。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え
物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
●主イエス・キリストの十字架は、神の愛である! そして神の義でもある! (義なる神だから
罪をゆるしておくことができなかった。 愛なる神だから、神のひとり子が十字架にかかることを
良しとしてくださった。)
神は、すべての人が悔い改めて、ひとりも滅びることを望んでおられない。 神の御心は、真の
キリスト者が、キリストを材料として、聖くされ、神に喜ばれる者となり、真のキリストのからだが
建て上げられることである。(Uコリント 5:9、Tテサロニケ5:23、
エペソ4:12)
主イエス・キリスト様に日々、祈り求めて従っていきたいものである。
★旧約聖書 イザヤ書
45:21
あなたがたの言い分を持ってきて述べよ。また共に相談せよ。この事をだれがいにしえ
から示したか。だれが昔から告げたか。わたし、すなわち主ではなかったか。わたしのほ
かに神はない。わたしは義なる神、救主であって、わたしのほかに神はない。