めんどり通信/2006年3月5日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★旧約聖書 出エジプト記 32:15
モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあっ
た。すなわち、表と裏に書いてあった。
★新約聖書 マタイによる福音書
10:26
だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠
されているもので知られずに済むものはありません。
●旧約時代、モーセはシナイ山で神の語りかけを聞いた。 主は語り終えられたとき、あかしの
板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。 板は両面から書いてあ
った。 すなわち、表と裏に書いてあり、その字は神の字であった。(創世記31:18、32:15,16)
このように、神のみこころは表と裏に書かれており、表は比較的に分かりやすいと思われるか
もしれないが、神のことば、みこころは、表と裏と両方を理解できて、はじめてみこころを行なう
ことができる。 特に、裏の方が重要である。
この裏の部分が、主イエスも言われた”たとえ”であり、神の”奥義”であると思われる。 主も
この”たとえ”を理解することが、どれほど重要かを弟子たちに話された。 主イエスを信じ、主
に従っていこうと真に、主に求めてくる弟子たちが、この裏の部分、”たとえ”を理解し、悟るこ
とができると主は言われた。 主がご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされ
るからである。(マルコ
4:34)
何かをもらおうとするだけで、気に食わないことを言われたり、自分の言うとおり、願いとおりに
してくれないと、いつでも主を裏切る群衆には、たとえを理解することができず、神の奥義を知
ることができない、と主ははっきりと言われた。
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:6
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
★新約聖書 第一コリント人への手紙
2:14
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚か
なことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によ
ってわきまえるものだからです。
★新約聖書 マタイによる福音書 6:63
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話し
たことばは、霊であり、またいのちです。
●聖書のことばは、神の霊感によって、神が人を用いて書かせたものであるゆえに、人の知恵
では理解できないものである。 もし、理解できたと思うものがいれば,表の部分のみで理解して
いるのであって、神が真にいわんとしておられることは、悟っていない。 あくまでも、その人
の、人間の理解であり、人間の理解は、それだけのものである。 聖書も、神のことばは、神の
御霊(みたま)によらなければ悟ることができないと書いている。
旧約時代のイスラエル人は、モーセを通して与えられた神の戒めを、神に頼らず、自分の力で
守ろうとした。 そこには、へりくだりがないし、己(おのれ)というものを知っていない。 イスラ
エル人は、「・・ほかの神々があってはならない。」とか「・・偶像を造ってはならない。(出エジプ
ト
20章)」とかの神の戒めを守るどころか、その反対に神の忌み嫌われることをしてきた。
しかし、旧約時代、あわれみ深い神は、預言者(神から言葉を預かって人々に語る者)を送ら
れ、神に立ち返るよう促(うなが)された。 しかし、彼らは、預言者をみな殺してきた。
そして、神の律法を表の部分だけで、勝手に解釈し、口伝律法なるものを高く掲(かか)げて、
自分達は神の律法を守っていると思い込んでいた。 だから、主はマタイの23章に記されてい
るように、彼らを特に、人間の解釈、つまりサタンのわざを行なっている律法学者やパリサイ人
に対して、「わざわいなるかな、律法学者、パリサイ人よ。・・・」と責められたのである。
今も尚、この口伝律法(今はタルムードとして、膨大な量であるが、本のようにまとめられている
という?)に執着(しゅうちゃく)している者たちに、神は、同じことを言われているであろう。
何も、このように主イエス・キリスト様に反逆したイスラエル人でなくとも、主は、表の部分だけ
を、人間の基準で神のことばを理解しようとする者たち、そのように受け取って離さない者たち
にも同じことを言われるであろう。
「わざわいなるかな、肉の者よ!」と。 聖書は、神の霊に従っていないもの、生まれながらの
人間、神のいのちによって生かされていないものに対しては、”肉”といっている。
★新約聖書 ルカによる福音書 10:21
ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であら
れる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠し
て、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったこと
でした。
●神のみこころは、すべての人が悔い改めて、真理を悟り、救われることである。(Tテモテ
2:
4、Uペテロ 3:9
) そして、真理を悟ることは、永遠を見ることでもある。 永遠の行き先(死後
の行き先)をはっきり知り、そこを目標とできることでもある。 永遠があることを悟る者は、こ
の地上生活は、永遠への備えをするところであるゆえに、聖書に記されているとおり旅人として
の生き方を求めていくであろう。(マタイ 25:35 、Tペテロ 2:11) 真のクリスチャンの国籍は天
にあるからである。(ピリピ
3:20) だから、旅人として、どう生きていくか、また、永遠のための
備えをどのように何をしたらよいのか、すべて聖書に記されている。 表と裏の両方を正しく見
ていく者が、それらを理解し、悟り、知ることができるのである。
裏の部分は、人の知恵では知ることができないが、主は、幼子のように、へりくだって求めてく
る者には必ず、与え教えてくださる。 たたく者(=祈る者ということ)には開いてくださる。 祈り
求めて捜す者となり、主に裏の部分、たとえ、神の奥義を悟らせていただきたいものである。
★新約聖書 マタイによる福音書 7:7
、8
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさ
い。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
★新約聖書 ローマ 人への手紙 8:3
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいまし
た。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉
において罪を処罰されたのです。