めんどり通信/2006年2月12日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 第Uコリント人への手紙 4:18
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時
的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
★新約聖書 ローマ人への手紙 1:20
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時から
このかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地
はないのです。
●新約聖書の使途行伝14章に、主の弟子パウロとバルナバの二人が、ルステラという町で、
生まれたときから、足が悪くて、一度も歩いたことのない人をいやしたことが記されている。
いやされたこの人は、パウロが話すことに熱心に耳を傾けていた。 パウロは彼の信仰が深い
と見えたので、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。 すると彼は飛び上がって歩
き出したという。
このことを見た群衆は、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と
雄牛数頭をいけにえとして、パウロとバルナバにささげようとした。 いやしたのは神であって、
自分達は福音を伝える者であると、パウロが話し、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえを
ささげるのをやめさせたという話しである。
★旧約聖書 エレミヤ書 8:2
それらを、彼らが愛し、仕え、従い、伺いを立て、拝んだ日や月や天の万象の前にさら
す。それらは集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。”
★新約聖書 ヨハネの黙示録 19:10
そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「い
けません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じし
もべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」
★新約聖書 ヨハネの黙示録 22:8、9
これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらの
ことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。
すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟でる預言者た
ちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」
●旧約聖書の記述の中には、太陽や月や星、すなわち天の万象を拝する人々のことが度々
出てくる。(II列王記 21;5、21:3、申命記4:19他) 私たちクリスチャンは、信仰の歩みにおいて
目に見えない神に聞くより見える器を”愛し、仕え、従い、伺いを立て”やすい。
ましてや、奇跡
やいやしなど不思議なことがその人を通してあらわれでもしようものなら、余計、見える器に伺
いを立てるであろう。 しかし、それは聖書で大きな罪といわれる偶像崇拝をすることである。
黙示録の中でも、ヨハネはみ使いを拝もうとして、それをとどめられていることが書かれてい
る。 主の直属の弟子であるヨハネが、あろうことか2度も繰り返している。 み使いということ
ばの原語にはmessenger(メッセンジャー=メッセージをする人)という意味も含まれるという。
主の真の弟子でさえ、人間の器を拝むことの罪に陥る危険性があるから気をつけろ!という警
告の意味がこめられているのかもしれないと思われる。
これはクリスチャンだけの問題ではないと思われる。 人を通して不思議なことが表われて、
特に医者が直らないと言った病気が治ったとか、何か奇跡が起こったとか・・そうすると、器崇
拝へと陥り、抜き足ならぬという具合となり、不幸になったということをよく聞かれる。 オウム
真理教の人たちの麻原彰晃への心酔、創価学会員の池田大作氏への心酔、北朝鮮の人々
の金日正への心酔・・・。
これらの器崇拝には、マインドコントロール(洗脳)が入っているように思われる。 罪から罪
へと深みに入っていく。 それは、聖書で警告しているとおり偶像崇拝だからである。 だか
ら、偶像崇拝という罪から、そこが入り口となって、傲慢(ごうまん)、汚れ、不品行、魔術、
敵意、争い、そねみ、憤り、ねたみ、酩酊、遊興・・・(ガラテヤ5:19〜21)などの罪が次々
と入ってくる可能性がある。 知らぬ間にそのような罪を犯す可能性がある。
確かに、聖書でも弟子たちが、奇跡を行ない、病気の人々をいやした記事が、あちこちに書
かれている。 しかし、問題は 何によっていやされたのか、誰によって、何によって、奇跡が
行なわれたのかということである。 ペテロは、生まれつき足のきかない男をいやしたとき、
言った。 「皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。 この人が直っ
て、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみ
がえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。使徒
4:10」
この器を拝さないということについては、イエス様も、地上の誰をも先生、主、父と呼ぶなとい
われた時、このことをさしている。 我々は、見えるものに、見える事柄に惑わされずに、正し
い義なるお方に目を向けていきたいものである。 罪を罪として聖霊によって示されて、本当
の意味で、はじめて罪を知ることができ、悔い改めることができる。 目に見えないが生きて
おられる方であるから、主に祈ることによって、悟りを得、キリストを体験し、神の恵みに預か
ることができるのである。 日々、祈り求めていきたいものである。
★新約聖書 ローマ人への手紙 6:23
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにあ
る永遠のいのちです。
★新約聖書 使途行伝 4:12
この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御
名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられて
いないからです。」
★新約聖書 第一テモテの手紙 1:17
どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えと
が世々限りなくありますように。アーメン。