めんどり通信/2006年1月29日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 第一テサロニケ人への手紙 5:4
    しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人の
    ようにあなたがたを襲うことはありません。

★新約聖書 マタイによる福音書 24:40,41
   そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
   ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

マタイ24章ルカによる福音書17章「ひとりは取られ、ひとりは残されます」というみこと
ばが記されている。 キリスト教会の多くは、この部分は、携挙(けいきょ)、再臨(さいりん)に
関係すると教えている。 しかし、この箇所は、決して携挙(けいきょ)のことを言っているのでは
ない。 真の意味は、聖霊によってだけ与えられる。

イエスは紀元前4年ごろに誕生され、紀元30年ごろに十字架刑を受け、その3日後に復活さ
れ、40日の間弟子たちの間に現れて神の国について教えた後、天に引き上げられた。 神の
言(ロゴス)である神の子が肉体を取られて人類の歴史に介入された事件を受肉と呼ぶ。 

★新約聖書 マタイによる福音書 24:42、44
    だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないか
    らです。
    だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るの
    ですから。

●今、イエスは天の御座において父の右に座しておられるが、この方は再びこの地上に復活
の肉体において降りて来られることが、聖書に記されている。 この2回目のイエスの到来を再
臨と言う。 

教会という訳語のもともとの単語は"ekklesia"(エクレシア)であって、「召し出された会衆」という
意味である。 すなわちそれは神によってこの世から使命を受けて召し出されたクリスチャンの
集合体であって、「キリストの体」、「キリストの花嫁」とも言われ、「一人の生きている新しい人」
である(エペソ2:15)。 だから、教会は いわゆる教会堂などの建物をさすのではなく、また
宗教法人などの何かの会員団体でもない。 

★新約聖書 ルカによる福音書 8:15
   しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞く
   と、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

●この教会は本来キリストの体の地上における表現であって、召し出されたクリスチャンの一
人一人は、ユダヤ人とか異邦人とかの区別なく、また人種とか色とか性別によらずみな等しく、
キリストの体の肢体であると聖書は啓示している(1コリント12章)。 この地上においてキリス
トの手足として福音を伝えたり、信者を養ったり、証しをしたりして、神の御旨を実行する機能を
帯びている。

神は、一人一人のクリスチャンのあり方を見ておられ、彼らがそれぞれにキリストにあって真理
のうちに建て上げられることが、すなわち教会が建て上げられることを意味する(エペソ2:21-
22;5:26-27)。 

さて、「ひとりは取られ、ひとりは残されます」”取られ”の原意は受け入れる、連れていくとい
うニュアンスがある。 この箇所の前には、ノアの洪水の記述があるが、これは終末に起きる
霊の洪水、悪霊の洪水をたとえている。 だから、「ひとりは取られ、ひとりは残されます」は終
末の霊の洪水の中に取り去られる人と残る人がいるということを言っている。 

20年ほど前から、キリスト教会では「第三の波の働き」というムーブメントが世界中で盛んであ
る。 それこそもっともらしいことを言い、世界中の教会を席巻しているが、どうも怪しい。 キリ
スト教会では大々的に宣伝しているが、こういう類のキリスト教ムーブメントが多く、多くの教会
やクリスチャンがこの怪しいリバイバル(再び生きる)の波に巻き込まれているようである。 そ
ういう人々が、「ひとりは取られ」の取り去られたものである。 

しかし、クリスチャンの中にも、その洪水の霊から逃れられるものもいる。 そういう人々が、残
されたものである。 残る人にみこころがある! 

キリスト教会では、主が再臨されて、携挙に取り残されたら大変だなどと、恐怖心をあおり、「レ
フトビハインド」(全米650万部突破本)などで、偽りを浸透させたり、ベニー・ヒン、ラインハルト
ボンケなど偽者でクリスチャン、教会を惑わしている。 

しかし、聖書は、「残る人」にみこころがあると言っている。

★新約聖書 ローマ人への手紙 9:27
   また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもた
    ちの数は、海ベの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。

★新約聖書 ローマ人への手紙 11:5
    それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。

★旧約聖書 イザヤ書 4:3
   シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレ
   ムでいのちの書にしるされた者である。

●今後、ますますノアの洪水(悪霊の洪水)は、すすんでくるように思われる。 このようなカリス
マ運動と呼ばれるこの波は、多くのキリスト教派、教団に及んでいる。 聖書は偽善者である
と惑わしの中に入っていくと記している。 

また、聖書の多くの箇所で、神は、人(クリスチャン)を”ためす”ことを記している。 偽善者な
のか本物(真実)なのかを神はためされる。 この惑わしから逃れるためにはキリストに頼るし
か偽りを見破ることができない。 

主は、みことばを行なっている者は真実であると言われる。 みことばを行なっているなら、偽
善者ではない。 みことばを行なっているかどうかが重要である。 

みことばはキリストによらなければ行なうことができないであろう。 そのためにも、ますます
日々、主に祈り求めていきたいものである。 

★新約聖書 ヤコブの手紙 1:22
   また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはい
   けません。

★旧約聖書 箴言 17:3
   銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。