めんどり通信/2006年1月22日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 第二ペテロの手紙 3:9
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるので
はありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも
滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
●マルコ14章に、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についてお
られると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、
そのつぼを割り、イエスの頭に注いだという記事がある。
その時、弟子たちは
憤慨(ふんがい)して、「何のために、香油をむだにしたのか。300デナ
リ(今のお金で3百万円くらい)以上に売れるから、貧乏な人に施(ほどこ)しができたのに。」
と女を責めた。 すると、イエスは
「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意に
と、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」(マルコ
14:8)と言われ、その上
「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の
記念となるでしょう。」 (マルコ
14:9)とまで言われた。
★新約聖書 ヨハネによる福音書 12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、そ
れは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
★新約聖書 マタイによる福音書 16:24
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自
分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
●ここで、高価なナルド香油は高価な、つまり、すばらしい聖霊の働きをあらわす。 器がなけ
れば油は運べない。 つぼを割る、つぼを壊すとは、器をこわすこと、つまり、自分の殻(から)
を破る、自我が砕かれることを表わす。 自己実現することや、自分を貫(つらぬ)くことは、つ
ぼを割らないことである。
つぼを割らないと、その人の肉(生まれつき)の個性や人間的な力しか感じられない。 つぼが
割られると、その人を通して聖霊を感じる。 我々には、2つの選択肢がある。 我々が、つぼ
をこわす気があるのかないのか、ということである。
★旧約聖書 詩篇 147:3
主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。
★旧約聖書 詩篇
51:17
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさ
げすまれません。
●上記の御言葉どおり、神は砕かれた者を喜ばれる。 砕かれた者を聖霊を運ぶ器として用
いられる。 ただ、我々が、つぼをこわす気があるかどうか、つぼを割る気があるかどうかは、
その人が決めることである。 主は、その決心のある者に、目をとめられ、みわざをあらわさ
れ、働いてくださる。 神は、我々がつぼを割ることを、砕かれることを望んでおられる。 だか
ら、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ・・、」とか「自分の十字架を負い、」とかつぼが割
られることを勧めておられる。 聖霊の働きは人を通してあらわれるからである。
★旧約聖書 出エジプト
15:26
そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しい
と見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わた
しはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをい
やす者である。」
●油を用いていくには、やはり2通りある。 売ってそのお金を貧しい人々に施すか、全部イエ
スに注ぐかである。 貧しい人が大勢いる。 貧しいとは聖霊の働きを受けていないということで
ある。 だから与えるべきである、というのはもっともらしい考えであろうが、それがキリスト教会
ではワナとなっているように見受けられる。
キリスト教会を席巻している、トロントやペンサコーラの働きはまさに、売ってそのお金を貧しい
人々に施すという働きだが、あろうことか聖霊ではなく、悪霊を注いでいるというから恐ろしい
ことである。
また、カトリックも良い行ないをしなければ、主を信じるだけではだめだなどと、これまた神に忌
み嫌われるようなことを主張している。 マザーテレサは、良い行ない、慈善行為をして世から
はすばらしい人と賞賛され、カトリック教会でも「福者」と認められ、(名声が)高く上げられてい
るが、彼女は、知人の神父に「自分と神との間には、大きな隔たりがあり、自分は救われてい
ない。・・・」などと心の内の苦しみを綴(つづ)った手紙を書いていた。
「売ってそのお金を貧しい人々に施す」とは、良いことのように聞こえても、実際はそうではな
い。 聖霊の働きがないことは、むなしいものである。
★新約聖書 第一テモテの手紙 2:4
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
●さて、油を全部、イエスに注ぐとは、キリストのみこころを行なっていくということである。 神
のみこころを行なっていくときに、すべての問題は解決されるのである。 まったく、神の見方と
人の見方は違う。 神を基準に、聖書を基準にしていくときに、すべてが解決されるのである。
なぜなら、神の方が、我々人が、救われることを望んでくださっておられるからである。 神の
恵みと祝福を人に与えたいと願ってくださっておられるからである。
そのために、父なる神は、私たちのところにイエス・キリストを遣わしてくださったのである。 キ
リストも我々の罪の身代わりとなられて、十字架で死んでくださり、3日目によみがえって今も生
きておられる。 我々は、この主イエス・キリストを信じ、日々の生活を、聖書を基準として、キリ
ストのみこころを行なうことができるために、ますます祈っていきたいものである。
★新約聖書 第一ペテロの手紙 3:18
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。
それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くた
めでした。
★旧約聖書 申命記 12:28
気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、
主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあ
わせになるためである。