めんどり通信/2005年8月21日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 2:7〜9
イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁(ふち)まで
いっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行
きなさい。」彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知
らなかったので、−しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。
●ヨハネによる福音書の2章には「カナの婚姻」と呼ばれる話しが記されている。 ガリラヤの
カナで婚姻があり、イエス様や弟子たちも招待された。 肉における母マリヤは、その婚姻の
世話をしていたようである。 宴席の途中に祝いのぶどう酒が尽きた。 マリヤはイエスに、ど
うにかしてほしい、と言う思いで、そのことをイエスに言った。 すると、イエスが言われた言葉
は「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。 女の方。 わたしの時はまだ来ていませ
ん。」
マリヤは、手伝いのしもべに「あの方が言われることは、何でもしてあげてください。」と言った。
そこには80〜120リットル入りの水がめが6つ置いてあった。 イエスはしもべたちに、6つの
水がめに水をいっぱいに満たすよう命じられた。 しもべたちは、イエスのお言葉通り、水がめ
の縁にまで水を入れた。 そして、イエスの命令どおりに それを、結婚式の世話役のところに
持って行った。 世話役はそれを味見して、今までの中で一番良いぶどう酒だったので驚い
た、という話しである。
聖書の中に婚姻、結婚とか書かれているのは、キリストと真のクリスチャンの関係を表してい
る。 カナの婚姻では、聖霊の傾注について我々に教えている。 聖霊の傾注、つまり、聖霊が
豊かに注がれて、人が多く救われたり、不思議な神の奇跡などが現われたり・・・ということであ
る。
先のぶどう酒と呼ばれる聖霊の傾注は、使途行伝に記されている。 弟子たちが、主に用いら
れて次々に人が救われていった。 病気がいやされ、悪霊が追い出され、神のみわざが次々、
弟子たちを通して現われた。 カナの婚姻をたとえとしての事がらの1回目は成就した。
しかし、これで終わりではない。 2回目の聖霊の傾注がある。 それを後のぶどう酒という。
これは終末における聖霊の大傾注、大リバイバルである。 その時が刻々と近づいていると思
われる。
カナの婚姻で教えられることは、大リバイバルが起きる前に、水がめの水を満たす必要がある
ということで・る。 ここでの奇跡も、マリヤがイエスに依頼したことから始まり、しもべたちが、
忠実にイエスに従い、水を満たしたことによって現われた。 イエスが自発的に奇跡を行なわ
れたわけではない。 これが聖書の、神の原則である。 神は、我々の依頼なしに、我々の神
への従いなしには、何もされないのである。 神は、人からの求めに応じ、人を用いて神のみ
わざを行なわれるのである。
マリヤの求めにイエスは「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。 女の方。 わたしの時
はまだ来ていません。」との答えだった。 ここでで「女」は「教会」のことである。 どうも終末の
リバイバルの時には、教会がイエス様から見放されるくらい、変質しているようである。 キリス
トと関係なく、神から離れた状態になっているようである。 このことは もうすでに始まってい
る。 今の時代、神の霊(聖霊)の働きがなければ解決できないようなことが多い。 本当は、
そんな時こそ、教会は、クリスチャンは、暗やみの中に輝く光として、人々に希望(=福音=キ
リスト)を宣べ伝えるべきなのであるが、世に付いた教会、クリスチャンは、アダムとエバ以来、
善悪の木の実から食べ続けて、罪人の姿から脱していない人間の知恵により、教会生活、クリ
スチャン生活をするものだから、神の霊(聖霊)が注がれようがない。 むしろ、悪霊を注ぐ働き
をしているベニーヒンとかラインハルト・ボンケとかピーターワグナーなどの集会に、世の人が
好きな芸能人の追っかけをして、到る所で出没するように、キリスト教会の牧師、教師、伝道師
が、同じことをやっている。 これでは聖霊が注がれようがない。
祈りと言えば、主を縛って動かせないような、魔術的なヤベツの祈りをしたり、おざなりの祈りで
あったり、くどくどと回りくどい祈りであったり、人目を気にした祈りで、尊い主の御名を、自分た
ちの勲章か何か飾り物のように用いるだけで、主の御名(=神ご自身)の御前に、へりくだって
いないキリスト教指導者、クリスチャンが多すぎる。 未信者がキリストのところに来るのを妨げ
ている。 おまけに、中東や欧米にいる白人のユダヤ人(聖書ではユダヤ人と偽る者と記され
ている)は、神が選ばれた選民だからと、彼らの言う教理(実は、タルムードに根を置いている)
を鵜呑(うの)みにし、力のないパレスチナ人を最新兵器で平気で殺しているのに、そのことに
賛同している教会、クリスチャンが多いと聞く。 彼らは、もはや、キリスト者とは名乗れないは
ずなのだが・・・。
聖書に記されている通り、そういう教会、そういう者たちは、さばかれるであろう。 イエスから
「女(教会)よ。 あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。」と言われる時代に、もう入り始
めたようである。 我々は、自分の主への言動を点検してみる必要があると思われる。
聖書は、たとえで多く書かれている。 聖書は、多くが終末の時に焦点が定められている。
教会が終末になると、神から離れて、変質することは、聖書のあちらこちらに記されている。
真の弟子たちだけが、最後まで主に付く。 群集は必ず、寝返る。 キリストを裏切る。
★新約聖書 マタイによる福音書 26:40,41
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロ
に言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましている
ことができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱いので
す。」
★新約聖書 使途行伝 1:14
この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を
合わせ、祈りに専念していた。
弟子の条件。 それは、どれだけ目を覚まして、主によりすがり、主を信頼して祈るかであろう。
ひたすら、熱心に、いつも、絶えず、祈れ、と主は我々に言われる。 イエスは弟子には一日に
合計、一時間くらいは祈ることを望んでおられるようだ。 その真剣な熱心な祈りに、神は答え
てくださり、聖霊を豊かに注いで下さるのである。
そして、水がめの縁まで祈りが満たされたとき、神は不思議な奇跡、神のわざを現わしてくださ
る。 今の日本にも、世界にも、この神のみわざが必要である。 大リバイバルは突然、そして
大規模に起きる。 我々は、さばかれる者ではなく、大リバイバルが起きるために、主が言わ
れた通り、水をくむ者(祈る者)となり、その時を待ちたいものである。
★新約聖書 マタイによる福音書 7:21
わたしに向かって『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国(みくに)にはいるのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名に
よって預言をし、あなたがたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡を
たくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。
不法をなす者ども、わたしから離れて行け。』