めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年7月3日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:22〜24
   しかし、御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制
   です。 このようなものを禁ずる律法はありません。 キリスト・イエスにつく者は、自分
   の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

●聖書のみことばは、第一義的な意味あいだけではなく、第二義的な意味あい、つまり主の
深い御心を知る、悟ることが重要である。 それはまた、たとえを理解することでもある。 主
は、キリストの弟子はたとえを理解する(=奥義を知ること)ことが許されているが、群衆はたと
えを理解することが許されていないと言われた。(マタイ13:11) また、それを知る、悟ること
は、その人を変えていく。 悟っていきながら、実を結んでいく。 実を結んでいかないと、みこと
ばによる祝福、恵みに預かることができない。 本当は、クリスチャンは神の祝福で建て上げら
れていくように召されている。 そして、最後まで残ってはじめて実を結ぶのである。

★新約聖書 マルコによる福音書 10:29
   イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のため
   に、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。
   今のこの時代には、家兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のい
   のちを受けます。

●上記のみことばの理解は、よくクリスチャンを悩ませるが、こういうことである。 クリスチャン
になって、往々にして捨てる、捨てざるを得ないこともあるということである。 キリストを信じた
ために、失うものがあるということである。 しかし、決してこのことは無駄にはならない。 この
御言葉は、この時代においても、ちゃんと戻ってくる、少なくとも百倍で戻ってくると言っている。
み言葉は、この時代はじっとがまんしなさい、とは書いていない。 すぐでなかっても、時間が
少しかかっても この時代に戻ってくるというのである。 クリスチャンの勝負は、この時代だけ
のものではない。 主も「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、
何の得がありましょう。マタイ16:26」
と言われている。 クリスチャンの勝負には永遠の命が
関わっている。

★新約聖書 第一ペテロの手紙 1:5〜7
   あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるよ
   うに用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでい
   ます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
   信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・
   キリストの現われのときに称賛と栄光と栄誉に至るものであることがわかります。

★新約聖書 第一コリント人への 10:13
   あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。 神は真実な方
   ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいま
   せん。 むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

●旧約聖書のヨブ記は「終末を迎えるクリスチャンへの備え」を意図として書かれているが、ヨ
ブは光の中を歩むクリスチャンの型、みことばと聖霊に満ちたクリスチャンの型である。 ヨブ
は、名声があり、信仰の弱い人を助け、正しさに満ちていた。 霊の目は開かれており、信仰
の歩みはしっかりしていた。 

しかし、ヨブはある日突然、次々に不幸が襲い、苦難にあった。彼の子どもたちが皆、死に、多
くの飼っていた家畜も死んでしまった。 そして、ヨブの体中に、悪性の腫物(しゅもつ)ができ
苦しんだ。 しかし、ヨブは「主は与え、主は取られる。 主の御名(みな)はほむべきかな。 
私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない。」と神に愚痴をこ
ぼさず、罪を犯すようなことを口にしなかった。 だが、苦難が続くにつれ、ヨブは、自分は何
故、このような苦難にあったのか理解していなかったから、自分の罪のないことを訴え、かつ
何故、神が自分をこのような目にあわせるのか理解できないと嘆いたが、それに対して、神が
語られたことばを聞き、「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」と言った。 そ
うすると神は、ヨブの前の半生(はんせい)よりあとの半生をもっと祝福された。 

ヨブのこれらの苦難は神の許可を得たとは言え、サタンから出たものである。 我々が知って
おかねばならないことの一つに、サタンは主につくクリスチャンを迫害し、神に許可を得ること
であり、苦難は神が下してはいないということである。 また、引き続きヨブは、神を信じる人
々から、ヨブが罪を犯したからこうなった、悔い改めよと非難されるという苦難を受けた。 しか
し、真のクリスチャンを建て上げるために、神のみわざが現われるために、神はサタンをも用
いるし、このようなことも許されるのである。  だが、決して真のクリスチャンが倒れるようなこ
とを、サタンに許したりはしない。 

 クリスチャンになるということは、マラソンのスタートラインに立ったということである。 マラソ
ンはスタートをきって走り出したら、最後まで楽々行けるというものではない。途中、何度も苦
しいときもあるであろう。 マラソンは一人で走るが、我々クリスチャンは肉眼では見えないが
聖霊が助けて下さっている。 そして、キリストは共に走って下さっている。 真に主に頼る者
はそのことの実際を体験し続けるのである。 ゴールまで、無事たどり着きたいものである。

★旧約聖書 ヨブ記 42:1
   ヨブは主に答えて言った。 あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成
   し遂げられることを、私は知りました。